壊れる少し手前の永遠

好きなバンドについて書いていこうと思います。

Rolls never end(と信じたい)

新型コロナ禍が収束の兆しすら見られない昨今、新たな規制対象としてライブハウスが槍玉にあげられている。

パチンコはどうなんだ、電車はどうするんだなどと言うつもりは毛頭ない。言っても無意味だ。

ライブハウスを批判している人に物申したいという訳でもない。ライブハウスに行ったこともない人間が批判している、というのもおかしな話だ。その理論で言うと、私は一生政権や上司を批判する権利は持ち得ない。あの地下室の密閉空間では換気もままならないし、ライブを見たくて集まった人が、道中でそれ以外の人に感染させてしまうリスクは確かに存在する。

間違ったことは言っていないし、正義は彼等にある。なので以下に書くことは全く建設的でない、感情論以外の何物でもない戯言、という前提での話。

 

きっと世の人間は東京事変以外のバンドを知らないのではないか、というくらいの集中砲火ぶりは、理屈を通り越して腹が立つ。彼等は間違っています、叩いていいですよ、と誘導された方向に群がる様は醜い。何一つ自分で調べようともせず、知っている、受け売りの知識のみで中止は賢明な判断です、なんてどの目線から、どの口が言うのか。更に苛立つのはチケットを持っているから中止になってホッとした、という意見。自分だけ損をするのが嫌だ、というのは分からないでもないが、ライブに行く行かない、それくらいのことも自分で決められんのか。そんなしょうもないことを外に晒すな。

 

これは私が音楽を好きだから今の世論が困る、という話ではおそらくない。

想像力の欠如が腹立たしいし恐ろしい。今正義と思われる側に立っている人間は、誰も自分の生活を社会的に不要だ、中止しろと国に判断されるとは露とも思っていないのだろう。

自分が袋叩きにしている人間が、自分と同じようにこの空の下で生活を営んでいる、という視点がすっぽり抜けている。

かく言う私もほっとけば無知な正義気取りを嬉々として行う人間であることは間違いない。情けない話だが、以前の職場で扱っていた製品が、韓国との問題の一連で輸出が危ぶまれた経験で、人ごとではなくなって初めて気がついた。

その時もネットには輸出規制は英断、これを批判するのは売国奴だ、という意見が目についた。彼等はその製品を売り暮らしている人間がいる、とは考えていなかっただろう。

想像力の欠如繋がりでもう一つ。娯楽という、彼等のいうところの、不要不急で生活に必要不可欠ではないものを作り出す人間が、ましてやそれに全身全霊をかけている人間が。止めろと言われてお利口にはい止めます、と割り切れるような物しか生み出していないとでも思っているのか。甚だしい侮辱だ。

 

何本も行きたいライブを見送った。レコードも買いに行っていない。引きこもって音楽と漫画と飲酒の日々だ。太ってしょうがない。ただ自分だけならともかく、お子さんのいる職場の方々に感染しでもしたら目も当てられない。おそらくこの判断は、現時点では間違っていないだろう。

 

想像する。きっとネットに書き込んでいる人も私と同じ、正体不明の不安に押しつぶされそうな日々を送っている。その出口、はけ口が欲しいのだろう。自分は正しいことを証明して心の安定をはかりたいのではないだろうか。

五十嵐さんは歌う、心なんて一生不安だ、と。

 

様々な方の英知と努力の結果ワクチンが生み出され、コロナ禍が収まり、元の日常が戻ったとして。元の生活に戻れない人はきっといる。その時に知らなかったんだ、私は悪くない、と言うのだろうか。いや、きっと気づきもしないのだろう。

私に出来ることはほとんどない。わずかな小遣いをやりくりして、好きなバンドのグッズを通販で買うくらいだ。

ただ私の部屋では、愛するバンドの音楽がずっと鳴り続けている。それは時代とは関係なく、ずっと変わらない。

 

今日の日記のタイトルはpealoutのラストアルバムから。never endと銘打ってこの後解散、というのは当時は凹んだが、近藤さんは今もかっこいいバンドを続けている。

rolls never end。この言葉を信じることしか今は出来ないが、本気で信じていることも確かだ。