壊れる少し手前の永遠

好きなバンドについて書いていこうと思います。

松永良平「ぼくの平成パンツソックスシューズソングブック」の感想とつたない自分語り

独身最後の日、引っ越し当日。自分のための記録として色々書いておこうと思う。まずは、好きなものについて。

「ぼくの平成パンツソックスシューズソングブック」を手に取ったのは昨年末、ココナッツディスク池袋店にて。松永さんの扱っている音楽は高尚なもの、というイメージがあり、積極的にレビューを読んでこなかったが(松永さんに限らず、豊富な知識や語彙力がある人の文章を読むと落ち込んでくる、という悪癖がある)、「平成」という自分の生きてきた時代の元号に魅かれ購入。

帰りの電車で読み始め、途中からイヤホンを外して一気に最後まで読んだ。好きなロックのレコードを聴いている時のような、背中がカッと熱くなる感覚。それから今日に至るまで、この本を繰り返し読んでいる。

私は色々なことを忘れていく。大学の頃あれだけ詰め込んだ化学の知識も今やゼロに等しい。大震災の時の恐怖や絶望すら、今日のようなことになってようやく思い出す始末。そしてその恐怖すらもどこか他人事だったような気がする。ただ、音楽のことは(もちろん記憶を美化しながら、だろうが)やたらとはっきり覚えている。

父の影響でカーペンターズやシカゴ、村下孝蔵、チューリップ、オフコースを。母の影響で岡村孝子アルフィーを聞いていた小学生時代。風邪をひいた日には、一日中ラジカセで小田和正槇原敬之のベスト盤を流していた。

友人にTHE BLUE HEARTSを教えてもらい、近くのレンタルショップで借りた1stアルバムに感動した中学1年の5月。そこからハイロウズを知り、初めてライブに行った中学3年の終わりの3月。指定席のため並ぶ必要は全くなかったが、母を急かし(親同伴がライブへ行く条件だった)会場1時間前からドアの前で待っていた。ヒロトが表紙に出ていた雑誌を父が買ってきてくれ、そこに載っていたバンドを聞けるだけ聞いた。

ハイロウズ銀杏BOYZを部室でひたすら流し、先輩や友人と遅くまで踊っていた高校時代。そのあたりから、自分のロックは何か、みたいなことを考え始めた。モテることも一切なく、頼みの綱だった学業も悪化の一途をたどっていたあの頃。ART-SCHOOLsyrup16gGRAPEVINEeastern youthPEALOUTNUMBER GIRLtheピーズゆらゆら帝国岡村靖幸フィッシュマンズスピッツフラワーカンパニーズ、チューインガムウィークエンド。大学以降に聞き始めたのは神聖かまってちゃん忘れらんねえよくらいか。CDショップも満足にないど田舎で、CDを手に入れる手段はレンタルと古本屋の一角のみ。彼らの音楽を頼みに一日一日をなんとか凌いでいた。

部活のある土曜の朝、出発前に見ていたワイドショーでハイロウズの活動休止を知り涙が止まらなかった。一回もライブに行けないまま、syrup16gは私の高校の卒業式と同じ日に武道館で解散した。

暗黒の大学院時代、研究室を抜け出しNHKホールに復活した五十嵐を見に行った。社会人になり、これまでの反動でどんどんライブに行くようになった。特に初めてフジロックに行った2016年、天国は地上にあったんだ、と本気で感じた。好きなバンドも増えた。the MADRAS、スカート、台風クラブ、家主、おとぎ話、遅ればせながらサニーデイサービス。

武道館で素晴らしいライブを見る機会にも恵まれた。初めて行ったのはthe pillows。ノエル、フラワーカンパニーズ、コレクターズ、奥田民生チャットモンチーの解散ライブ、そしてtheピーズ

日々聴いていた音楽に付随して、当時のことがぼんやり思い出される感じ。音楽に生かされてきた平成元年生まれの31年。

前置きが長くなったが、そんな平成の日々を、私より20歳ほど年上の松永さんも音楽と共に過ごしていた、ということが分かり、それが何よりもうれしい本書。

時代に翻弄されながらも人生を切り開く、とか、お金はなくとも幸せ、とかそういった要素が無いわけではないが、分かりやすい紋切型のヒーローの半生記ではない。

未来への漠然とした不安と、それとは別に生まれ来る自信。生涯忘れ得ない煌めく瞬間と、それ以外の時間。かけがえのない出会いと、永遠の離別。そういった「生活」を繰り返し、積み重ね、そのそばにはいつも音楽が鳴っていた。

一人の音楽を愛する青年が、その時々に何を感じ、どんな曲を聴いていたか。好きな先輩や、居酒屋のカウンターで初めて会ったおじさんから聞く昔話のような、どこか優しく、心地よい話が詰まっている。

平成12年の章で、職人さんが恥ずかしそうに、エレカシが好きなことを松永さんに打ち明けるシーンがある。これは誰にも身に覚えがあるんじゃないだろうか。本当に好きなバンドのことを他人に話すのは、自分をさらけ出すのとほぼ同意で、なんとも言えず恥ずかしい。受け入れられなかったらどうしよう、という不安も付きまとう。信用した相手でないとかなり難しい行為だ。こんなやり取りはどの時代も、世界のどこででも行われているんだな、と思うとなんだか優しい気分になれる。

友人の黒木さんと、ジョナサンリッチマンの「ガヴァメント・センター」を聞いて興奮するシーンもまたしかり。部室で銀杏BOYZのCDをかけて、すごいすごい言いながら笑っていたあの日を思い出す。

素晴らしい箇所はそれこそいくつもあるのだが、個人的にとても嬉しかったのは、平成4年の章の30ページ。theピーズ「クズんなってGO」への言及があり、思わずやった、と声が出た。聞いてきた音楽や知識量、そしてそれらに対する愛は比較することすらおこがましいが(比較する必要すらないかもしれないけれど)、自分の大好きな音楽と、松永さんのそれにわずかでも接点があったことがとても嬉しかった。

接点と言えば、本書でも繰り返し言及されるジョナサンリッチマン。ハイロウズ経由で少なくとも高校の時までには聞いていたはずなのだが、当時はハイロウズより音が小さいじゃん、という理由でほとんど素通り状態だった。それが、昨年になって突然体にすっと入ってきた。youtubeで何とはなしに「Abominable Snowman In The Maket」を流して、なんだこれ、かわいくてカッコイイ、と驚いた。聞いているとどんどん幸せな気持ちになってくる魔法のような音楽。

RCサクセションも好きになったのはつい最近。「分かってもらえるさ」を聞き、こんなに優しい声で歌う人だったのか、と感動し、急いでディスクユニオンの通販でEPLPのレコードを注文した。ある日突然ピンときて、だんだん分かることがある(歩く花)の歌詞通り。最初は分からなくても、時間が経ってまた出会えることがあるんだな、と実感する出来事だった。

ここからはもう一つの思い出語り、1月10日にココナッツディスク吉祥寺店での、松永さんとスカート澤部さんのトークイベントの記憶。

早い時間に行われる法事に出るため、退社後東京に前乗りしたものの、礼服を忘れたことに新幹線内で気が付き意気消沈。やけになり、これからレコード屋にでも行こうか、とスマホをいじっていると、ちょうどその日の遅い時間、ココ吉でトークイベントがあることを知った。カバンの中には当然のように「ぼくの平成パンツソックスシューズソングブック」が。礼服は無いのに。これは神様の思し召しだ、とアホほど満員の中央線に乗り換えて吉祥寺へ。

店内に入ると、イベントを待つお客さんに紛れて、普通に松永さんがいらっしゃって驚いた。その後すぐ澤部さんも入店。控室とかないのかな、と思いながら7インチのコーナーを物色。お二人が並んで、年齢差関係なく本当に友達とするように、CD棚を見ながら談笑されているのをチラチラ眺めることが出来たのは幸せだった。

トークはお互いにレコードやCDをかけたり、本の中でも触れられていた、ミックスCDを介した二人の出会いや、発売前の「駆ける」の話をしたり。あの時流してた音楽、きちんとメモしておけばよかったと今更ながら後悔するが、楽しい時間を過ごせた。

トーク終了後、松永さんが過去作ったリズム&ペンシルの冊子やパンフのプレゼントコーナーが。私は2000年のジョナサンリッチマン来日記念号を頂けた。中にはヒロトのインタビューも。この冊子を松永さんが作られたのは31歳で、今の私と同じ年。ようやくジョナサンリッチマンの魅力に気づくことが出来た今、これを頂けたのには意味があるんだろうな、と喜びでフワフワしていた。高校生の時の自分とか、色々なものがここにきてようやく繋がっていく感じ。

イベント後には本にサインもいただけた。theピーズが好きなんです、と話しかけると、松永さんも30周年の武道館に行ったよ、とのこと。この本と小冊子、この2つは後生大事にしよう、と誓った。

 

あの日々からは断絶されてしまうのだろうか。分からないことを後ろ向きに考えても仕方がないかもしれないが、今のところ展望は見られない。同時に、あれだけ救われてきた音楽に対しての無力さを感じる。好きなバンドのグッズを通販で買い、好きなレコード屋の通販を使い、署名し、ドネーションに参加し、好きなバンドをサブスクで聞き。できることはしているつもりだが、どれも「可能な範囲」の微々たる額。ちりも積もれば、であることは分かっているが、これだけでこの先乗り切っていけるとは到底思えない。それに参加していないクラウドファンディングも山のようにあり、この時点で助ける・助けないの判断をしていることに気が滅入る。この無力さは、選挙に行って、開票速報を見ている時の気持ちに似ている。私の票に意味などないじゃないか、と。

こんな気持ちになる原因は明らかだ。誰かが用意してくれた枠組みでしかアクションを起こしていないからだ、選挙も今回の支援も。こんな状況になっても誰かが何とかしてくれる、と思っていることが悲しいし、腹が立つ。だって本当に何とかしたいなら、好きな店に自分の貯金を持って行ってドンと渡すこともできるはず。それをしないということは、我が身可愛さが勝っていることの証左に他ならない。自分の生活を崩したり、自分が悪者になることを怖がっている、それが白日の下にさらされただけだ。

コロナ禍の少し前、私は新たな夢が出来た。そして、この夢は今動き出さないと叶わないものになってしまう、という確信にも似た焦りがある。

できることをするしかない。そして何かを自分で決め、始めなければいけない。出社はせざるを得ないが、何とか病気にかからない、うつさないような生活を。ライブハウスがなくなって、あの頃はよかったと思い出話をするのではなく、今日のライブも最高だった、と言いたい。

いつも以上にとりとめがなく、無駄に長くなってしまったが、これから先、自分の記憶を都合の良い方向に書き換えてしまわないようにしておきたかった。そろそろ冷蔵庫の配達が来る。