壊れる少し手前の永遠

好きなバンドについて書いていこうと思います。

5/5 雑記

 曽我部恵一の作品を1から順に聴いていくGWの最終日。今部屋に流れているのは曽我部恵一BANDの「LIVE」。まだソロアルバムだけでも12枚あるし、ライブ盤リミックス盤再結成後のサニーデイが残っていることを考えると、もう1週間ほどの休みが必要である。

 

 家に篭っていると、自然とスマホに手が伸びる。精神的に良くないニュースばかり探して見てしまう。

 「エモさ」優先で生きることの限界を日々考えている。私は幼い頃からガリ勉的な生き方をしてきたが、「知識より直感が正しい」という価値観をよく目にしてきた。優等生が裏で悪いことをしていて、ヤンキーがそれを成敗するというマガジン的展開だ。

 書きながら考えを整理しているため内容がゴチャゴチャするが、この「知識の軽視」の果てが今日なのだと思う。直感、感情は反射的に生まれるが、それが何に基くものか、どのような意味を持つか検証されぬまま垂れ流しになっているように感じる。

 1年以上経って、病床は増えない検査は進まないワクチンも手に入らないというのは、どう考えても政治の失策だ。これを「皆頑張っているのだから責めても仕方ない」で済ませられる人間は、よほどの特権階級なのだろうか。

 相手をおもんばかることができる人は「優しい人」であろうが、その優しさを政治家に拡張する必要はあるのだろうか?

 国民は賢いのに政治家だけ無能だ、ということはないのだろう。無投票を反対票だと考える。雰囲気やテレビで見たことあるから、という浅い動機で投票先を選ぶ。私達が感情優先で生きる以上、政治にもそれが反映されるのは当然なのだろう。

 知識を持つ専門家の意見より、芸人のコメンテーターをもてはやす優しい私達。評価基準は「分かりやすい」。気狂いのような現実は、物量で押しつぶしにかかってくる。

 

 レコードを「東京コンサート」に交換する。 

 

 知識を失えば言葉を失う。この事実はブーメランとして真っ先に自分に返ってくる。ライブやCDの感想を書く時、決まって文末は良かった感動した救われたに終始する。白痴の如き語彙力だ。何か他の言葉はないか、自分の中をぐるぐる探すも見つからない。

 知識がないからだ。知識はゼロからは産まれ得ない。その音楽がどこから来たか、どのような歴史、理論の上に成り立っているのか。勉強と言えば大袈裟だが、調べようとしない限り答えは得られない。

 結局諦めてブログの更新ボタンを押す。その繰り返し。

 

 せめてコードの一つでも分かればと本などを読むのだが、未だにピアノの「ド」とギターの「C」が頭の中で一致しない。好きなバンドの周辺くらい体系的に掘ってみればいいものだが、それも中々重い腰が上がらない。

 感じたことが全てだ、と言い切るのは楽だが、このままでは何処へも行けない。第一、知識のない状態でその音楽の良さを十分「感じる」ことが出来ているのか。 

 

 挙句、評論家のレビューではなく素人の感想文をありがたがる。分かりやすいからだ。世間に感じる憤りは、全て自分に感じる憤り。無能で優しい大衆の立派な構成員だ。自嘲に終始して改善しないのだから、よりタチが悪い。今日もきっとこのまま終わる。

 

 レコードを「LOVE CITY」に交換する。