壊れる少し手前の永遠

好きなバンドについて書いていこうと思います。

the MADRAS 4/9 下北沢CLUB Que 備忘録と自分語り

 久しぶりに生でバンドの音が聴けた喜びと同じくらい、もしくはそれ以上の孤独と寂しさが、ライブ中ずっとまとわりついて離れることはなかった。

 匿名のブログとは言えあまり人様に言うことではないが、コロナが始まってから初めてライブハウスに行った。2年間仕事以外はほとんど引きこもりのような生活をして頑張ってきたにも関わらず、結局一番コロナが蔓延している時期に我慢ができなくなったのは、我ながら情けない。

 一応理由と言うか言い訳はあって、適応障害に端を発した鬱症状が日増しに固定化し、コロナの前に別の理由で死んでしまうのではないか、という恐怖から逃れられなくなったためだ。仕事に行くこと自体が辛くてしょうがなく、それを5日繰り返した後は2日間死んだように家にいるだけの生活に限界を感じていた。もちろん今日の行動で罹患し、症状が酷かった場合どうしようもない後悔に襲われるのは明らかだが、それでもライブを見たかった。昔のように、ライブハウスなら私を救ってくれるのでは、という一縷の望みに縋り、なんとか今日まで命を繋いできた。

 本当に久しぶりの東京。ライブ前には、喫茶店に行ったりカレーを食べたりレコード屋をはしごしたりと、かなりの散財をした。かつての私にとっては幸せいっぱいの、ストレス発散にうってつけの行動だったが、今日はどこにいても信じられないくらいの孤独感に襲われ続けた。鬱の時に旅行に行ってはいけない、と言われるのはこうなるからか、と実感した。愚者は経験からしか学ぶことができない。負の感情をなんとか振り払うため、左手の指輪を何度も眺めた。

 ライブハウスに到着しても、かつての高揚感が湧き上がってこない。開演を待つ間、ただ不安がつのるばかり。談笑する人を見るにつけ孤独感が増し、密状態によるコロナが今更心配になる。ここでは客の声出しは禁止されていないようでライブ中もガンガン歓声があがり、加速度的に辛くなっていった。

 ライブ自体は、どのバンドも素晴らしかった。

 沖野俊太郎Groupは今日が初ライブだったらしいが、沖野さんの熟練された歌声から発せられる色気は凄まじく、ロックスターの風格を感じた。

 cruyff in the bedroomの演奏では、轟音のギターに身を委ねる快楽に頭まで浸かった。ライブ後半になるにつれその轟音を突き破るような美しいメロディを持つ曲が演奏され、陶酔感はピークに達する。最後は日本語詩による言葉がダイレクトに突き刺さった。

 46°haloは、音だけで言うとこれまで世界中に何千何万といたであろうギターバンドだが、それらのバンド全てがこんな風に熱く、楽しそうに演奏してきたのだろうな、と感じさせてくれるステージだった。

 もちろんthe MADRASのライブも期待以上だった。「フェザー」はこれまで配信で見たどのライブよりもメロディが伸びやかで素晴らしかったし、大好きな「ルーザー」や「スパークル」も生で聴くことができた。えらめぐみさんのベースは、自分が自分が、と主張するような音やベースラインではなく、バンドを統率し、全体の音を整えるように丁寧に演奏される。「バンド」という形態を本当に大切にしているのだな、とその音から勝手に感じ取ったりしながら演奏を見ていた。

 だが終演後も、私にまとわりついていた不安感や疲労は軽減されていなかった。やっと生でライブを見れたのにこれか、という失望でさらに気が重くなる。橋本さんに少しご挨拶させていただいたが、きちんと話せていたかどうかも分からない。ライブの余韻に浸るというよりもただ足が動かず、しばらく出口の前でぼーっとしていた。

 調子に乗ってゴールデンウィークにいくつかライブの予定を入れていたが、今日の感触から無理だと判断し、全てキャンセルすることにする。鬱もそうだが、一人で行動することに耐えられない体になっていた。数年前までは、もう一人で生きていくしかないと覚悟が決まっていたため、自由気ままな一人旅はむしろ好きだった。ご縁があり運良く結婚できたが、私は妻に依存し、自立心がすっかり失われていたことが今日よく分かった。一人じゃ生きてけない、という草野マサムネさんの歌声が頭の中で鳴り響く。

 鬱の解消にライブというカードが使えない、という事実は重くのしかかる。レコードも半ば買うことのみが目的になり、なかなか聴く事ができていない。けれど、今日喫茶店でコーヒーを飲んだ時は、一瞬何もかもから解放された気分になれた。何とか生きのばす術を見つけ、心からライブが楽しめる日が来ることを、今はじっと待つしかない。