壊れる少し手前の永遠

好きなバンドについて書いていこうと思います。

syrup16g「Hell-see」

発売20周年記念のレコードが届き、久しぶりにsyrup16gの音楽を聴いた。ここ数年は自分の人生と向き合うことで精一杯で、五十嵐さんの苦悩には付き合えない、という理由でsyrupから遠のいていた。歌詞に自分を重ねるまでもなく、乗り越えるのが困難な苦しみが目の前に山積みであったためだ。新しいアルバムすらきちんと聴けていない。syrupが本当に大切なバンドであった頃の自分やsyrup自体を否定したい訳ではなく、ただ時間の経過と共に考えが変わっただけで、それ自体に良し悪しを決める必要はない。当時から好きだった最後の曲「パレード」は、優しさを携えたまま変わらずそこにあった。

気になったのは金光さんのライナーノーツだ。バンドをずっと近くで見て来た編集者がこんな印象批評しかできないのでは、と少し落胆した。いや、少しではないか、私の愛したバンドと生きた時間を棄損されるような憤りを感じる。syrup16gが特別なバンドであることは否定しないが、syrupの音楽を本質と位置付けるなら、本質とはそれ自体で存在するものであり、他の表現を落とす必要はなかったはずだ。
私とて「上っ面のコミュニケーションや共感を叫んでいたバンド」を好んだことはなく、寧ろ唾棄していた側ではあるが、それらのバンドが今活動しておらず、金光さんの記憶に残っていないことは、その表現が「間違っていた」ことの証左になり得るのか。今認識できない事象は間違っていた、無かったことと同義なのか?生き残っているものが正解、という考えはsyrupが避けて来た強者の理論に容易く飲み込まれてしまうのではないだろうか。
「信仰にも似たロックのアプローチには向き合えなかった」五十嵐さんは別の居場所を求め、自分なりの方法で他者とのコミュニケーションを取ろうともがいた。その苦悩を「そんな奴らだけが、syrup16gと共に生きることを許されている」などと別の信仰の枠組みに落とし込むのは正直許し難い。「上っ面」のコミュニケーションと、自身の暗部から生まれる感情を他人に見せつけるコミュニケーション、それに浅い深いという二元論でジャッジをするのも強い抵抗がある。穿った見方をすれば、自己否定は他者からの否定を防ぐ防御の一つであり、syrup16g は困難に対峙するのではなく自分なりの楽な表現方法に逃げた、浅いものと評価することだってできる。ただそんな評価を必要とするか?であれば二元論を持ち込むことはおかしいはずだ。

syrup16gがもうとっくに解散しているバンドであれば、まあ神格化する輩が出るのも仕方ないが、五十嵐さんはsyrupに最後に残されていた「ロック的な」部分、伝説のバンドになるという選択肢を捨てて今も活動している。そのことによって、私のような懐古ファンのみではなく新しいリスナーと出会い、それぞれがsyrupを通じて自身の闇と対峙しているはずだ。であれば、ただこのアルバムの素晴らしさのみを綴って欲しかった。syrup16gは年寄りの慰めや自己憐憫に浸るための、ましてや自分が特別であると錯覚するためのアイテムなどでは決してない。このレコードがただのファンアイテムに留まり、新たな若いファンがこの文書に触れないことを願う。