壊れる少し手前の永遠

好きなバンドについて書いていこうと思います。

岡村靖幸 5/18 新潟市民芸術文化会館 備忘録

今回で3回目の岡村靖幸ライブなのですが、終演後毎回思うことがあります。

きちんと曲を予習しておけば良かった、と。

岡村ちゃんのファンになってからもう10数年経ちますが、私は超代表曲と最近のシングルくらいしかCDできちんと聞いたことがありません。

昨年の金沢のライブで初めてカルアミルクを聞き、「これがかの有名なカルアミルクか」となったレベルで曲を知りません。

今回のライブも初めて聞く曲がたくさんあり、サビで何の曲かようやく分かる、という場面が何回もありました。

しかし、私はおそらく次のライブも予習なしで臨むことになるでしょう。

それは、愛する岡村靖幸の楽曲を「初めて聞いた時の感動」をたくさんとっておきたいからです。
中学生の時「ロングシュート〜」を初めて聞いた時の感動を、30手前の今でもライブで感じたいのです。

以前のライブで「カルアミルク」「イケナイコトカイ」「ペンション」を聞いた時に浴びた興奮と感動を、今日も「どんなことをして欲しいの僕に」で感じることができました。


今日のライブは10時前になりようやく終わりました。
少し肌寒い気温が火照った体を冷やします。

おそらく来るべき次の秋のツアーも、「out of blue」とまだ聞いたことのない岡村ちゃんの「新曲」を聞きに行き、そしてまた予習しておけば良かったと思うことになるのでしょう。


フジロック後の生きる目標がまた一つできました。
こういう幸せな記憶を積み重ね、日々を生きのばしていくのです。

the chewinggum weekend そして the MADRAS 鳴り止まない音楽たちへ(2)

探し続けて早幾年、一向に巡り合えないthe chewinggum weekendのCD。
趣味だったはずのレコード屋巡りが少しづつ苦痛になり始めていた頃。

通販ショップ「駿河屋」で見つけてしまったのです。
「the chewinggum weekend 『Killing Pop』 6300円」の表記を。

確かにこれまでネットで見た値段(8000円~12000円)よりは安い。
高校生の時とは違い、今ならこれくらいはすぐ出せる。
それに他の客に見つかればすぐ買われてしまうだろう、そうなったら確実に後悔する...

しかし。
長年追い求め、思いが肥大化しもはや夢というよりも人生の目標(の一つ)となっていたCDをあっさりネットで買っていいものか。

当時、私は仕事でたまる一方のストレス発散を買い物で行うようになってしまっており、藤子F不二雄の短編集や島本和彦の単行本など(漫画ばっかり)それまで欲しかったものは一通り買い集めてしまい、大げさでも何でもなく「Killing Pop」が人生最後の欲しいものになっていました。

ここで達成感の無い勝利を掴んでしまったら、この先何を目標に生きていけばいいのか。
誰かに先を越されてしまった時の後悔と、人生の目標を安易な形で手に入れる後悔、どちらを選ぶべきか。


私は、購入ボタンを押し、一週間後それは自宅に届きました。


CDは間違いなく最高でした。
待ちに待った「エレキング」のイントロから始まり、「消えない光がある それだけあれば行くよ」と力強く歌う「キリングポップ」。
壊れる寸前のギターソロの中、「解けない魔法がまだ 胸で鳴り止まない いつか見た幻 追いかけたいよ」と優しく歌う「ウォーターピストル」。
心の空洞を埋めるかのように、CDを繰り返し再生しました。

しかしこれ以降、私はレコードショップの棚をほとんど見なくなってしまいました。
少し気になるバンドがいてもyoutubeで少し聞いて終わり。
新規開拓もおろそかになり、新譜を買うバンドもsyrup16gART-SCHOOLeastern youth そしてGRAPEVINEと、田舎のレンタルショップに置かれないCDのみ(最近はスピッツですらレンタルで済ませるようになってしまいました)。
「Killing Popロス」に襲われ、人生の延命装置ですらあった音楽を以前より聞かなくなっていきました。

余談ですが、この年の暮れ、広島カープ日本シリーズ3連敗を札幌ドーム現地で見たショックにより熱狂的カープファンからの引退を決断、人生の大きな支えだった2つの熱を失うことになりました。


しかしこの年、2001年のバンド解散後、音楽活動から遠ざかっていた橋本さんの新しい音源がネット上にアップされました。
そのバンド名は「the MADRAS」(音源が出たときは橋本孝志 with Dots Dash & Rico名義でした)。

2016年3月に「スタンド」、翌4月には「ロスト」。
そこには15年前と何ら変わらない橋本さんの歌声が、力強いバンドサウンドの中で響いていました。


「曖昧な夢に溺れるのはやめたんだ 消えたくなる夜を僕らは超えていくよ」(ロスト)


この歌をライブで聞きたい。
the chewinggum weekendを解散後に知り、そのCDすら正規の方法では購入できなかったファンとは言えない存在かもしれませんが、直接会って想いを伝えたい。
新しい人生の目標に、「the MADRASのライブに行く」という項目が追加されました。



ちなみに私の浪費癖は無事(?)健在であり、現在はレコードプレーヤーも持っていないのにレコード収集を行っています。
先日はバカ高い値段でスピッツの「フェイクファー」オリジナル盤を購入しました。
結局欲しくなるなら30周年再発盤を定価で買っておけば、と後悔するも後の祭り。
毎月毎月、貯金を来月の自分に託す生活を送っています。ストレスはたまる一方なのですが。

the chewinggum weekend そして the MADRAS 鳴り止まない音楽たちへ(1)

私が高校生だったころの夢の中に、the chewinggum weekendというバンドの「Killing Pop」というアルバムを購入する、という項目がありました。

the chewinggum weekend。
初めて聞いた時から今まで、ずっと恋焦がれているバンドです。
そのボーカルである橋本孝志さんは現在the MADRASというバンドで活動されています。
先月、私は遂にthe MADRASのライブに行き、橋本さんの歌声を生で聞くことが出来ました。



キラキラと輝き、しかし今にも崩れ落ちそうな轟音のギターの向こうから聞こえてくる、橋本さんの甘い歌声で紡がれる切なさとポップさが入り混じった歪で美しい詩。
エレキング」という曲を聞いた時、「これは僕のバンドだ、聞きたかったのはこれだ」と強く感じたことを覚えています。

出会いのきっかけはおそらくthe pillows
当時のサポートベースだった淳さんの元在籍バンド、ということで名前を知ったのだと思います。
バンドは2001年にすでに解散しておりネットにもあまり情報は無く、分かったのはアルバムを2枚しか出しておらず、その2ndアルバム「Killing Pop」はプレミアがついており高校生には手の出しづらい値段であることくらいでした。

曲はニコニコ動画で聞くことができました(立派な違法視聴で申し訳ないですが)。
記憶がものすごくあやふやなのですが、大昔のニコニコ動画って会員登録にお金が必要だった気がします。
syrup16gの密録音源のサムネを眺めながら、聞きたいけど家族共用のパソコンで得体のしれないサイトに登録するのはなあ、と逡巡していました。
それが無料で登録できるようになり、こっそり登録し、そこでsyrup16gart-schoolを貪るように聞く中で、ついにthe chewinggum weekendの音源に出会いました。

エレキング、キリングポップ、ロマンス、ウォーターピストル。
珠玉の名曲が詰まった「Killing Pop」の虜になり、いつかお金持ち(?)になって1万円近くするこのアルバムを所持できるような人間になりたいと思ったものです。

それからは中古CDを探しに行くとき、いつも「チ」の行をドキドキしながら見ていました。
1st album「チューインガムウィークエンド」は比較的早く、安価で手に入りました。
2ndのギターロック然としたサウンドとは異なり鮮やかなアレンジが施されたアルバムで少し意表を突かれましたが、シングルにもなっている「あの娘をつかまえて」は名曲中の名曲。
「あまりに頼りなくて儚い夢 見続けてるの」というサビは何度聞いたか分かりません。実は2ndの曲を差し置いて一番好きかもしれません。

大学生になり、昼休みに大学近くのブックオフでsingle「アイス」を見つけたときは思わず声が出ました。しかも100円。
物の価値が分からぬ愚かな民よ、とニヤニヤしながらレジに持っていきました。


塾講師のアルバイトをするようになり、一応は「Killing Pop」をネットで購入できるくらいのお金は貯まりました。
しかし私の夢は「Killing Pop」と「どこかのCDショップの棚で出会い」購入することに変貌していました。

CDはCD棚に陳列されているもの。
ネットで高いお金を払って(しかも本人にそのお金が行くわけでもない)憧れのCDを手に入れるのは、例えは最低の部類ですが、風俗で偽りの愛に溺れるようで何か嫌だったのです、当時の私は。
どこかのCDショップで恋に落ちるように「killing Pop」と出会いたい。
その想いを胸に、いつか出会える日を夢見、18歳からおよそ8年間、期待を胸に秘めて「チ」の行を探し、そして落胆し、を繰り返し。


そして2016年4月、社会人3年目の春。
私は6300円でその「風俗」で「偽りの愛」に溺れてしまうのです。


the chewinggum weekend - あの娘をつかまえて (PV full ver.)

syrup16g 3/20 新木場STUDIO COAST「冥途」思い出し感想(last)

本編ラストは1stから「Drawn the night」、そして1st mini album『free throw』から「翌日」で締め。
「ロックの未来はsyrupにあり! 世紀末、静かに放たれる彼らの[フリースロウ]」
帯にそう銘打たれた、現在の若いバンドの水準からは考えられない音質レベルではありますが、間違いなく名盤である『free throw』。
syrupの全てが詰まっているアルバムであり、表現がどんなに鬱屈した方向に向かってもやはりsyrupの本質はこのアルバムの1曲目「翌日」だと思っています。

syrupは(セールス的には)世界を変えられなかったし、ロックの未来を託されるには荷が重かったかもしれませんが、日が経つにつれ美化される記憶の中で「伝説」として終わるのではなく、全てをさらけ出しながら現役のロックバンドとしてこの日まで生きながらえてきました。
それが最も素晴らしいことであり、それが全てだと感じさせられるライブでした。

「翌日」のあたりになると、最初はボロボロだった声も少し戻ったというか、気にならなかったというか。
中畑さんのコーラスがいつも以上にきれいに響いていた気がします。
この日が終わりではなく、また今日の続きの日が訪れることを確信させてくれるラストでした。


ここまでで14曲、もちろんこれでは帰れません。
すぐに早くなり、波のように何度も消えながらも鳴りやまない手拍子の中ステージに戻ってくるメンバー。


なんとメンバー全員同じ「十六夜」のTシャツ着用での登場。
ここがこの日何回目かの個人的ハイライト。
普段であれば五十嵐さんと中畑さんが最もダサいTシャツ、キタダさんがその次にダサいTシャツを着用と役割分担(?)が決まっていましたが、この日はついにキタダさんがダークサイドへ。
患者Tの時もキタダさんは「医者」だったり、やはりどこかでバンドを俯瞰できる一歩引いた場所にいた印象のマキリンでしたが、最後の最後で、音的にも服装的にもひとつのバンドに。
『copy』から16年、紆余曲折を経てsyrup16gがバンドであることを取り戻したことを感じさせるシーンでした。

このあたりからは客席も盛り上がることに一切の遠慮がなくなっていました。
かつては手を挙げる人はごく少数で、後ろから見てると大海原で救助を求めている人状態で、その人も周りの空気を察し次のサビでは手を挙げない、というような光景が常だった気がしましたが、この日は最前列は完全にモッシュピットとして機能していました。

「無効の日」から始まって、「生活」「神のカルマ」「share the light」「天才」そして「真空」。
盛り上がるな、という方が難しい激しい曲で固められたアンコールは本当に一瞬で終わりました。

やはりこれでは帰れない。
祈るように手拍子を続けました。


ダブルアンコールでは五十嵐さんだけ「冥途」シャツを着用。
確かに、中畑さんもキタダさんもすぐ別の現場があって、休むのは五十嵐さんだけだもんな、と妙に納得。
また記憶があやふやですが、「頑張れ」と何人にも呼び掛けられる中で、「良かったよ」だったか「お疲れ様」だったかの声に瞬間で反応する五十嵐さんに笑いました。めっちゃ聞こえてるんだな、と。

最後は「reborn」でした。
「またいつか戻ってきます。また会いに来てください。おやすみなさい」というMCで始まったイントロ。
バンドの節目節目に演奏される、とても大きな意味を持つ曲となった「reborn」を五十嵐さんは丁寧に歌い上げていました。

ライブ後に発売された音楽と人のインタビューで、五十嵐さんが自ら書いた「reborn」の歌詞に救われている、という発言を読んで、私的にはこのライブがようやくひと段落しました。
五十嵐さんが「reborn」に(というかこの曲が代表曲として扱われることに)あまり良い印象を持っていなかった気がしていたのですが、ファンにとってはもちろん、五十嵐さんにとっても大切な曲になっていたこの曲に思いを込めてステージを後にしたsyrup16g
寂しくないといえばウソになりますが、また会える日を楽しみに待つ日々も悪くはありません。


最近は天気もいいので、五十嵐さんには部屋に引きこもらず散歩にでも出て気分転換しつつ休息の日々を過ごしていてもらいたいです。
そしてまた生きている間に(五十嵐さんはもちろんこちらも)戻ってきていただきたい。
亡くなられてた青木さんのこともありますが、生まれ変われるのは生きていられる間だけです。
まあ特に連休もなく世間で言うGWを社畜として過ごした私が言えることではありませんが...


2か月近く前のライブの感想をようやく書き終えることが出来ました。
あれ以降、かなりのペースでライブに行きました。
同じく新木場できのこ帝国、松本でART-SCHOOL、下北沢で台風クラブ/サニーデイサービスの対バン、その夜に同じく下北沢でthe MADRAS(チューインガムウィークエンドの橋本さんが始めたバンドです)、そして豊洲でフェニックス。

お金が貯まるわけがない生活ですが、大学院の地獄の日々を考えると何とも幸せな日々を送ることが出来ています。
昨日より今日が素晴らしい、とまあ言い切れなくもない人生に感謝しつつ、明日から仕事です。

フジロックのためにいっぱい働いていっぱい稼いで、苗場で浴びるほどビールを飲めるよう頑張ります。

恋は雨上がりのように ルパンを超えた店長

世間は明日からGW。
そんな風潮をものともせず明日も絶賛出勤の私が残業を終え意気揚々と帰宅すると、ポストにamazonから「恋は雨上がりのように」最終巻が届いておりました。

最高の締め方だったのではないでしょうか。
早速お酒を買い込み、1巻からじっくりと読み直し現在このブログを書いております。
おそらく今回も支離滅裂な文章だと思います。絶対自分では読み返したくないです。


感想としましては、マンガ(アニメ)のかっこいい中年ランキングがあれば、店長はカリオストロのルパンを超えたな、ということです。

中年が真っすぐな少女の想いと対峙した時、どう振舞うのが正しいのか。
全ての日本男児が「カリオストロの城」のラストシーンで学んだことと思います。
目の前の少女を抱きしめたいという葛藤に打ち克ち、広がる未来への道へ少女を戻して去っていく。
そういう大人になりたい、と思ったかつての私(現在28歳独身)は500mlのビールでへべれけになっています。


店長の振舞いはルパンを彷彿とさせるシーンが多々あるな、と今回読み直して気が付きました。
捕らわれた(本作は精神的に、クラリスは物理的に)少女の心を手品で解きほぐそうとする所とか。
自身の恋心を自覚し、終わりの時を引き延ばそうとする自分に気が付きながら、主人公のために思いを断ち切り、陸上への復帰を促す所とか。

しかしルパンとの大きな違いは、店長は泥棒ではなく、大人になり切れなず、全てを見失いかけていた文学青年であること。


ルパンはクラリスの心を盗んで去りました。
店長は一度は奪った少女の心をそっと返したのです。
ここが、この漫画が最高だな、と思った点です。


以下本文から引用します。
最後の「デート」からの帰りの車中での会話。

「...今日のこと、俺 きっと一生忘れないんだろうな」
「あたしも... あたしも忘れません!」
「え? いや~ 橘さんは忘れるよ~」
「忘れません! 絶対絶対忘れませんッ!!」
「いいんだよ。橘さんは忘れたっていいんだ。」

最高のシーンでした。
アニメはまだ見ていないのですが、この場面までやったのでしょうか。

少女のために、自分ができること。
それは、光の向こうへ助走をつけられるようにそっと心を押してあげること。
そしてその未来には自分との記憶は必要ない。
忘れてくれ、ではなく忘れたっていいんだ、という言い回しがなんとも言えない優しさを感じさせます。
少女の恋心を優しく返してあげることで、それはよりよい形で少女の心に残り、未来へ歩を進める力へと変わったのです。


他にキたのは、店長が「君にもあるんじゃないのか? 待たせたままの... 季節の続きが」とあきらに問いかけるシーン。

君には、じゃなくて、君にも、ですよ。

カリオストロのラストシーン、クラリスと分かれた後にルパンが車内で見せた物思いにふけった表情を思い返していただければお分かりいただけると思いますが、ルパンはあの一連の騒動で何をも手にすることはできませんでした。
不二子にちょっかいをかけるため冒頭でいらないと捨てた偽札を作るための原版を前に明るく振舞ってみたり、銭形と追いかけっこをしたり。
自身を興奮させてくれる何かを探すため、無為な日常を紛らわせるため、あてもなく世界をさまよう根無し草。

しかし店長は小説に対する情熱を、過去と現在の自分が断絶された存在ではなく地続きであるという事実を、主人公によって取り戻していました。
雨宿りをするスペースを少女に与えていたはずの自分が逆に与えられていた。
これが盗むことしかできなかったルパンと、与えることができた店長との違いだったのではないかと思います。


最終話の部分も、雑誌掲載時には手紙は読めずにいる、という部分が手紙は読まずにいる、と変更が成されていたところも良かったです。
読めずに、だとどこか後ろ髪をひかれている感じがありますが、読まずに、だと自分の意志で読んでおらず、吹っ切れている感じがより強く出ていると思います。

最後のプレゼントが雨傘じゃなくて日傘な所とか、実は同世代でもどこかで接点があったんじゃないかと思わせる想像のシーンとか、とにかく最高な1冊でした。


この漫画はきっと今後も繰り返し読めるだろうな、と思います。
10巻前後で間延びせずきちっと完結するマンガって最高ですよね。
寄生獣とかトライガンとかヨコハマ買い出し紀行とか。
そういえばルパンといえば、実写版で主演の大泉洋カリオストロの銭形の物まねが上手だった気がします。
いよいよ思考がとりとめもなくなってきたので、もう寝ることにします。


明日も頑張って働きます。

ART-SCHOOL 4/21 松本アレックス 備忘録

ライブ終わりました。
木下理樹の声がどうだろうが鼻炎だろうがギターから変な音が出ようがMC迷子になろうが、ARTがARTであるだけで最強ということを再確認しました。

耳鳴りは鳴りっぱなし。
手は震えっぱなし。

最高でした。

以下覚えていることを箇条書き。

・理樹さん鼻炎。歌声はいつもと同じ。
・「光のシャワー」で、理樹ギターから意味不明な単音が鳴る。ナカケン苦笑い。
・リッキーモノマネコーナーは井上陽水稲葉浩志福山雅治。意味不明であるが盛り上がる。
・戸高さん巻き込まれ、稲葉浩志のモノマネ。少し似てる。
・ナカケンにモノマネ要求、戸高さんに「先輩はやめとけ」と止められる
・MC迷子止まらず、ゴールの無い筋トレの話スタート。
・ナカケン、理樹さんが滑るさまを見てすらいない、とキツイ発言
・自分で始めたのに「なんで筋トレの話?」とメンバーに問いかけ総ツッコミ。
・ナカケン、ふざけんなよ、とおもわず漏らす
・ナカケン、「ゴミ拾いしてるのに、なんで散らかしてるの?(と言われるのと同じ)」と発言、木下理樹のバンド内ヒエラルキーが最下位であることを再確認

・アルバムの曲がとにかく良かった
・「ロリータ キルズ ミー」の入りが最高だった、ナンバーガールの透明少女みたいな感じ
・ダブルアンコールの「FADE TO BLACK」は何回聞いても最高、メンバーの躍動感、爆音、刹那が永遠をつかんだメロディ。これさえあればいいと本気で思わせてくれる。

終演後、サイン欲しさにシャーロットepを購入してしまいました。2枚目です。

まあとにかく良かった。それだけです。

そして入った居酒屋がとにかく美味しい。
松本最高です。

syrup16g 3/20 新木場STUDIO COAST「冥途」思い出し感想(3)

ほとんどかすれ声で何とか歌い終わった「生きているよりマシさ」。
これまでのsyrup16gのライブなら、無言でチューニングするステージとそれをただ待つことしかできない客席、という重苦しい空気になりがちな場面でした。
しかしこの日はいい意味で開き直った五十嵐さんがいました。
「想定内。3曲は持った」と一言発し、笑いに包まれるSTUDIO COAST
頑張って、という客席からの声援も、過去のライブのように浮くことなく自然に感じられました。
開かれた、というよりも、バンドも私たちも、ただそこにあるありのままの音楽を感じることができるようになったといいましょうか。

これまでsyrup16gというバンドを唯一無二の存在にさせながらも、その代償として五十嵐さんの音楽が本来持つ普遍的なすばらしさを歪ませてしまうほどに膨れ上がった虚像。
これまでは私たち(私、と言い直した方がいいかもしれません)はその虚像を必要以上に有難がり、妄信して。
一方バンドもその虚像を介してしか世界と向き合えない、という時期があった気がします。

そのモヤが晴れた先には、年々声が出なくなるギターソロが苦手なボーカルと、金髪で時々大きな声で吠え出すドラマーと、顎髭をたくわえた凄腕ベーシストの3人が鳴らす、ここ以外での何処にも鳴っていない、ただ素敵な歌がありました。

最後のアルバムになるはずだった『syrup16g』から「来週のヒーロー」。
今週は出番がない、と言い訳をしながら、遠い未来は分からなくても来週はある、という手に届く範囲の希望を歌う名曲。
「sonic disorder」は、マキリンのアレンジが施されたベースソロで開始(あの日は正直アレンジとは思わず、マキリン何かミスったのかな、と思っていました)。
その後ドラムと泡のように消えそうなギターが被さり、興奮を煽る長めのイントロ。
そして五十嵐さんの咆哮で皆一気に手を挙げていました。
この瞬間に残った喉の力を全て振り絞ったかのように、先ほどまでのかすれ声とは全く違う、澄んだ、力強い歌声。
これが見れただけでもこのライブに来れてよかった、と心から思いました。

声のかすれた「I.N.M」は、音源とは別の切迫感・説得力がありかなり良かったです。
これもものすごく前向きな曲。
やはりかつては曲の良さを素直に感じることができていなかったのだな、と改めて感じました。

この日のハイライトは「落堕」だったと思います。
中畑さんの雄たけびドラムソロで沸く中、マキリンがベースを降ろしドラムセットへ。
マキリンがシンバルを手でたたき、笑いあうリズム隊。

バンド。
バンドでしかあり得ない、素敵な瞬間でした。

やはりsyrup16gが現在の状態にたどり着くことが出来たのは、キタダさんがサポートではなくメンバーとして参加してくれたことが大きな要因であると思います。
佐藤さんという初期メンバーが抜け、バンド幻想や青春が1度終わったsyrup16g
その後キタダさんという凄腕ベーシストをサポートに迎えて演奏力は上がっても、「copy」に宿った、技術の向こう側にある凄み、バンドが生み出す魂は再現できなかったのではないでしょうか(と、私は過去感じていました)。


五十嵐さんの作る弾き語りで完結しそうでしない、絶対的にバンドという枠組みを必要とする楽曲。
これまでバンドの1/3であった五十嵐さんが1/2になったような錯覚に陥り、さらに追い込まれ1/1のような状態になり。
syrupをsyrupたらしめるため、よりネガティブに、しかしどこか演じているような歌詞は構造の変わったバンドの中で不完全燃焼を起こし黒煙を上げていました。
かつての自分たちにあったはずの蒼さを取り戻すために「delayedead」を作るも活動は思うように進まなくなり、そして演奏自体も空中分解。
バンドはせめて最後の瞬間を華々しく演出しながらも死を迎えました。

しかし今は違います。
この3人でしか出せない音が、間違いなくステージ上で響いています。
季節が巡り、バンドが迎えた何回目かの春。
それは、ステージにいる3人が、キタダさんも中畑さんも数々の別の現場がある状態でも、この3人だけがsyrup16gである状態を取り戻したからだと思います。

書きながら気づきましたが、以前の活動休止の時と流れは同じなんですね。
過去の曲を再編集したアルバムを出してから、活動休止宣言。

しかし、過去に縋ることと、過去と対峙することは全く違います。
syrup16gの過去、活動休止期、そして現在をつなぐために作られた『delaidback』。
そして今のsyrup16gで「copy」と真正面から向き合ったツアー。
このアルバムとツアーの記憶がバンドとファンお互いにある限り、また次の季節が来ることを信じられます。


それにつけてもこの日は本当にマキリンが良かった。
キタダさん、という呼びかけに手を振ってこたえ、それを見て沸くマキリン側(この日2回ありました)。
特に2回目の、言葉では表せられない感情がこもった呼びかけを聞いてなぜか涙が出てしまいました。

アンコールの時も最高の瞬間があったのですが、明日松本にART-SCHOOLのライブに行くため朝早いのでここで中断したいと思います。
また長々とだらだらと続けてしまいました。
しかも今素面なので上の文面が恥ずかしくなってきました。
何を思ってこんな恥ずかしい独り言を書き連ねているのか分からなくなってきますが、そんな気分にさせてくれる何かがsyrupにはあるのです。