壊れる少し手前の永遠

好きなバンドについて書いていこうと思います。

7/22 日記

 昼寝と言うには長すぎる惰眠から目覚めた。無為な1日ではない、と自分に言い訳をするため、Aメロだけで放りっぱなしになっていた曲を完成させた。様々な理由で落ち込んでる気持ちを奮い立たせるため、やけに明るいアウトロを無理やりくっつけた。フルートの音が無性に聴きたくなり、そのパートも入れた。タイトルは「コンサートフルート」とした。

 

 これで通算6曲目。誰も聴かない曲をこそこそ作り、大海原へメッセージボトルのごとく放流するのは嫌いではない。こんなこと現実逃避以外の何ものでもないが、今日は自分の作った曲を繰り返し聴きながら夕食の準備をするつもりだ。

 現実逃避がてら、フジロックのことも考えていた。ツイッターから、アプリを使用し始めて5年経った、という知らせが来たからだ。初めて行ったフジロック、この楽しみを誰かと共有したいと思い立ち、アカウントを取得したことを思い出した。一昨年くらいまで、私はフジロックのために生きていた。

 手慰みにスマホをいじっていると、どうしても気分が落ち込んでくる。考えねばならないことが多すぎる。

山川直人「はなうたレコード」

 以前、webで連載されていた時に一度駄文をしたためたが、単行本になったのであらためて感想などを書ければ。

 やっぱり手に取ってめくることができる紙の漫画はいいな、ということをまず思った。音楽も漫画も配信は便利だし、配信だから愛着が湧かないなどと言うつもりはない。モノはかさばるし、時に所有欲が先走り本質から外れてしまうことも。そもそも山川さんの漫画に会ったのはネットの海の中だ。

 ただ、好きなレコードや漫画は、理屈ではなく手元にあって欲しい。愚かと言われればそうだが、それくらいの愚かさはこんな世の中では許容範囲、かわいいものだろうと開き直りたい。

 

 まず表紙をじっくり眺める。1話の最後のコマと同じく、コーヒータイムを楽しむ2人が描かれている。最初はコマにそのまま着色を施したのかな、と思っていたが、所々違う箇所がある。1話ではペアのコーヒーカップだったのが表紙ではそれぞれ別のカップだったり、部屋の隅にボブディランの「欲望」のレコードが置かれていたり。 

 側から見れば間違い探しのような、代わり映えのない毎日。そんな暮らしを、好きな人と繰り返すことができるのは、幸せと呼んで差し支えないだろう。そういった日々を記録した一冊だ。

 話と話の間には、名盤ジャケットのパロディ画とスケッチの様な挿絵が。あとがきでも触れられていたが、はなうたとスケッチは似ているのかもしれない。メロディや主線という、正しくなければいけないという概念にとらわれない自由さ。他に思い浮かぶのは散歩だろうか。どこに行っても行かなくてもいい自由。

 

 漫画の中には、数々のレコードが登場する。小室等RCサクセション友部正人小坂忠、あがた木魚、岡林信康吉田拓郎かぐや姫高田渡… 

 レコード屋にあるのはJohn ColtraneThelonious Monkだろうか。大滝詠一YMOの7インチも並べられている。豆太の家の押し入れからは「HOSONO HOUSE」が出てきた。中古で値上がりしているレコードなため、とても羨ましく思ったり。こういった細部をじっくり読めるのは楽しい。

 本作は、「あかい他人」の一話である「シアワセ物語」や、「シアワセ行進曲」と同じく同棲カップルを描いた作品である。2012年にも「卓袱台のある部屋」(道草日和に収録)が発表されており、コーヒーやカメラと並んで、根底に流れるテーマの一つなのだろう。 

 山川さんが20代の時の作品「シアワセ行進曲」では、豆太(こちらは幹太であるが)は時に自由を謳歌し時に持て余す「若者」として描かれている。恋人と青春の日々を過ごしながらも、漫画や二人の関係と言った未来に漠然とした不安を覚えたり、取り戻せない過去の出来事がよみがえる夜があったり。

 一方で、「はなうたレコード」の豆太も若き漫画家だがあまり焦りは感じられない。漫画のアイデアをなんとか捻り出した後は本を読んだりレコードを聞いたりで悠然としている。このキャラクターの変化は、山川さんが歳を重ねたことと無関係ではないような気がする。歌手が若い頃に作った歌をベテランになってから歌うと、アレンジが変わって別の味わいがあるように。

 あの頃は良かったという作り物のノスタルジーや、何でもないようなことが、という幸せを押しつけてくる作品ではない。今日も続いてゆく、人間の生活の「記録」だ。感染者は何人だ、観客の上限は何人だと、ほっておけばただの数字として処理されてしまう。命はオリンピック会場の背景か?違うだろう。それぞれの街で営まれる、体育座りでレコードを聴く生活以外に守られるべきものがあるだろうか。この漫画を読むと、いつもeastern youthのアルバム「2020」が脳内で流れる。

 ページをめくり、奥付の後にある白紙の数ページを眺めると、少し寂しい気分になる。本棚から別の山川作品を引っ張り出し、また読む。

 

 何故こんな時間にブログを書いているかと言うと、ワクチン接種のため休みを取ったからだ。これも記録。

Jonathan Richman「Surrender to Jonathan」

 我が家にまた新たなレコードをお迎えすることができた。jonathan richmanの1996年作である「Surrender to Jonathan」。

 ジョナサンのレコードを昨年から集め始め、先日市場に出ているのを初めて見かけた。オークション終了間際に中々の値段がついており、半ば諦めながら500円上乗せした額で入札し就寝したのだが、翌朝まさかの落札通知が来ており驚いた。

 レコードにはジョナサンのサインが。出品者の方が、そのツアー時にもらったのだそう。当時のフライヤーとシュリンクまで残っており、とても大切にしていたの物だと窺える。中古レコードには必ず前の所有者がおり、それの売買は歴史を受け継ぐことでもあるだろう。私は今、1997年の5月に思いを馳せながらレコードを聴いている。

 本棚から松永良平さんの「ぼくの平成パンツソックスシューズソングブック」を取り出す。松永さんは1997年のツアーに帯同し、その2年後にリズム&ペンシルの創刊号を上梓している(まだその本を読めていないが、いつか必ず手に入れたい)。松永さんも出品者の方と同じライブハウスでジョナサンを聴いていたんだな、と思うと不思議な気分になる。

 「Surrender to Jonathan」は、かなりポップなアレンジが施され、とても楽しく聴けるアルバムだ。他のアルバムのように、最小編成の朴訥なジョナサンもいいが、このアルバムが今の所一番好きかもしれない。英語をきちんとリスニングできないので真意は理解できていないだろうが、「Not just a"plus one"on the guest list anymore」の力強さと「Surrender」のロマンチックかつ陰のある歌詞が特にお気に入り。つぶらな瞳でポーズを決める表ジャケと、どこか憂いのある表情の裏ジャケの二面性も素敵。

 ジョナサンの曲はなるべくレコードで聴きたいので、持っていないアルバムはサブスクでも聴いていない。これからどれくらい時間がかかるかは分からないが、ゆっくりこの旅を続けられれば、と思っている。

 f:id:sakurai-t-af:20210627001042j:image

レコードの値段の話

 つい最近、私は7インチのレコードを1万円で購入するという大罪を犯してしまった。実店舗で見かけたならば絶対買わない値段のレコードを、ネットでは買ってしまう事も増えてきた。

 「落札しました」のメッセージが出た瞬間に正気に戻り、襲ってくる焦り。その音楽はサブスクでも聞ける訳で、それを定価を遥かに超えた値段で買うのはきっと正しい行いではない。

 かつては足を使って安い掘り出し物のCDを買うのが楽しかったはずなのに。学生時代、大学近くのブックオフで、チューインガムウィークエンドの「アイス」を100円で見つけた時の喜びは今も覚えている。

 

 私のレコード棚に入っている、100円の値札がついたままのジェネレーションXの1stを眺める。いつから私はこうなってしまったのか。その答えを探るため、私はディスクユニオンの購入履歴を調べてみることにした。

 

 記録にある最初の購入は2015年だった。数百円のCDや本ばかりで、まだ私が「音楽を聴く」ために音源を買っていたことがうかがえる。知恵のリンゴを齧ってしまったのは2017年の4月だった。買っていたのはスピッツの「花鳥風月」、6480円。

 そして本格的に壊れたと見られるのが同じ年の11月3日。この日だけで2万円以上のレコードを買っていた。思い出してきたが、この日はレコードの日で、土岐麻子さんの新譜を買うとサインが貰えたのだ。私をレコード沼に引き込んだのは土岐麻子「PINK」だった。

 

 2018年の4月、スピッツ「フェイクファー」を8700円で買っている。8月にはハイロウズのレコードを集め始めた形跡が見られる。この2バンドのレコードコレクションを始めたあたりで、私は定価を超えたレコードを買うようになったのだ。

 

 最近は、新品のレコードも高い。5000円や6000円の盤もザラに見るようになった。7インチ1000円、LPを3000円で出してくれるスカートや台風クラブは偉大だ。

 

 月の小遣いの95%をレコードに費やしている(残り5%はお菓子とパン屋で買うメロンパンとアンパン)。この生活をいつまでも続ける訳にはいかない、頭の中では分かっている。しかし、先日曽我部恵一及びサニーデイのレコード収集を終えた私は、ジョナサンリッチマンのレコードを集め始めてしまった。ジョナサンのレコードは高い。再発が進んでいるのはありがたいが、どうしても旧譜は値が張る。

 純粋なリスナーとしての道を踏み外してしまった私の、罪を重ねる日々は終わりそうにない。

5/5 雑記

 曽我部恵一の作品を1から順に聴いていくGWの最終日。今部屋に流れているのは曽我部恵一BANDの「LIVE」。まだソロアルバムだけでも12枚あるし、ライブ盤リミックス盤再結成後のサニーデイが残っていることを考えると、もう1週間ほどの休みが必要である。

 

 家に篭っていると、自然とスマホに手が伸びる。精神的に良くないニュースばかり探して見てしまう。

 「エモさ」優先で生きることの限界を日々考えている。私は幼い頃からガリ勉的な生き方をしてきたが、「知識より直感が正しい」という価値観をよく目にしてきた。優等生が裏で悪いことをしていて、ヤンキーがそれを成敗するというマガジン的展開だ。

 書きながら考えを整理しているため内容がゴチャゴチャするが、この「知識の軽視」の果てが今日なのだと思う。直感、感情は反射的に生まれるが、それが何に基くものか、どのような意味を持つか検証されぬまま垂れ流しになっているように感じる。

 1年以上経って、病床は増えない検査は進まないワクチンも手に入らないというのは、どう考えても政治の失策だ。これを「皆頑張っているのだから責めても仕方ない」で済ませられる人間は、よほどの特権階級なのだろうか。

 相手をおもんばかることができる人は「優しい人」であろうが、その優しさを政治家に拡張する必要はあるのだろうか?

 国民は賢いのに政治家だけ無能だ、ということはないのだろう。無投票を反対票だと考える。雰囲気やテレビで見たことあるから、という浅い動機で投票先を選ぶ。私達が感情優先で生きる以上、政治にもそれが反映されるのは当然なのだろう。

 知識を持つ専門家の意見より、芸人のコメンテーターをもてはやす優しい私達。評価基準は「分かりやすい」。気狂いのような現実は、物量で押しつぶしにかかってくる。

 

 レコードを「東京コンサート」に交換する。 

 

 知識を失えば言葉を失う。この事実はブーメランとして真っ先に自分に返ってくる。ライブやCDの感想を書く時、決まって文末は良かった感動した救われたに終始する。白痴の如き語彙力だ。何か他の言葉はないか、自分の中をぐるぐる探すも見つからない。

 知識がないからだ。知識はゼロからは産まれ得ない。その音楽がどこから来たか、どのような歴史、理論の上に成り立っているのか。勉強と言えば大袈裟だが、調べようとしない限り答えは得られない。

 結局諦めてブログの更新ボタンを押す。その繰り返し。

 

 せめてコードの一つでも分かればと本などを読むのだが、未だにピアノの「ド」とギターの「C」が頭の中で一致しない。好きなバンドの周辺くらい体系的に掘ってみればいいものだが、それも中々重い腰が上がらない。

 感じたことが全てだ、と言い切るのは楽だが、このままでは何処へも行けない。第一、知識のない状態でその音楽の良さを十分「感じる」ことが出来ているのか。 

 

 挙句、評論家のレビューではなく素人の感想文をありがたがる。分かりやすいからだ。世間に感じる憤りは、全て自分に感じる憤り。無能で優しい大衆の立派な構成員だ。自嘲に終始して改善しないのだから、よりタチが悪い。今日もきっとこのまま終わる。

 

 レコードを「LOVE CITY」に交換する。

 

石井恵梨子「僕等はまだ美しい夢を見てる ロストエイジ20年史」備忘録

 書籍を購入してから早一月以上。本当は、読後の感動に任せてすぐ備忘録を残してしまいたかったが、どうにも分かったような言葉ばかり浮かぶ。何回も本を読み直し、レコードを聴き直ししているうちに時間ばかり過ぎてしまった。

 

 本書は、これまでの膨大なインタビューを中心に構築されていると思われるが、メンバーの発言としてカギカッコがつけられている部分は少ない。筆者による時代背景の説明と共に、大半が地の文として構成されている。

 最後の章で、ロストエイジは「距離の近い神様」と形容されるが、この構成はバンドの発言が「御神託」にならないようにするためではないか、と感じた。

 これはバンド成功の秘訣、といったビジネス書やハウツー本ではない。バンドの浮き沈みをエモーショナル一辺倒に描写したり、これこそが正解であると必要以上に崇めるようなモノでもない。

 直接会って話す、という、同じ時間を生きた人にしか出来ない記録。それを残し、会ったこともない誰かに伝えるため、丁寧に編まれた本。バンドに対する愛と確信、少しの祈りが込められた、ボトルメッセージのようだ。

 私は本書を読むまで、バンド名が小文字から大文字に途中で変わっていた、ということを知らなかったレベルのファンなのだが、タイトルの「ロストエイジ」という表記にも、バンドの歴史すべてを分け隔てなく記述する、という意思が込められているように感じる。事実、本書ではバンドの歴史どころか、バンドを取り巻いた社会背景、メンバーが生まれ育った奈良の桜井市、果ては奈良の歴史まで語られている。

 

 伊坂幸太郎の小説「チルドレン」に、「黄金時代が現代であったためしはない」という記述があった。ロック百花繚乱の時代が過ぎ、確かなロールモデルが失われつつあった2000年台初頭にデビューしたバンド、ロストエイジ

 メジャーデビューして成功するという、ある種当たり前の夢を持っていたバンド。それがセールスやメンバーの不仲など全ての壁にぶつかり、「当たり前」とされている物事を疑い、噛みつき、闘いながら、手探りで進んでいく。

 その過程で様々な物をバンドは手放していく。売れるという夢に始まり、響きを重視した歌詞や、轟音オルタナバンドという培ってきた看板。レコード会社、雑誌に掲載されるインタビュー(と宣伝)、流通、果ては非日常でありたい、というロックバンド像まで。

 その先に残った、掴んだ「夢」とはなにか。本書を乱暴にまとめるとこうなるだろうか。

 また、ロストエイジを取り巻く現状として、村社会という言葉が使われる。村社会と言うとどうしても閉鎖的、排他的な印象を受けるが、良質な音楽という、大海原へ流れていく川の源流がある村だ。マニアだけがほくそ笑むような類の音楽ではなく、排他的コミュニティとは一線を画するものである。

 一番好きな箇所は、最終章でメンバー3人それぞれの1日が描写される3ページ。しっかりとした生活があって、そこから音楽が生まれる。それは当たり前のようで、当たり前ではないことのように感じられた。

 

 私が最初にロストエイジを知った曲は「surrender」だった。ガラケーで聴いた記憶がある。このバンドはいいぞ、と強く感じたが、それきりに終わっていた。当時、私の生活圏内であった徳島には、彼らのCDは置いていなかった。

 現在も、彼らのCD全てを持っている訳ではない。直近2作、ライブ盤と「LOSTAGE」のLPくらい。何故なら、四畳半の部屋に引っ越さなければならなくなった際、置き場所に困り泣く泣く大半のCDを処分したためだ。まあネットとかで聴けるだろうし、という見通しは甘かった。彼らの楽曲はサブスク配信されていない。

 

 セールスに対しての価値観の移り変わりも興味深い。今では5000枚も売れるなんてすごい、という感覚だが、2004年だとショックを受けるほど少ない枚数だったらしい(私の好きなバンドは、スピッツを別として大体1万枚も売れていなかったので、あの頃の感覚をよく覚えていない)。

 数字と言えば、イアンマッケイのエピソード。ネットでインタビューを読んだ時は7インチのジャケットを千枚手作り、という表記だった記憶があるが、本書では1万枚に増えており、凄すぎて笑ってしまった。

 

 最後まで読むと、音源を聴いてまた最初から読み返したくなる本である。まず、手放してしまったCDを集め直すところから始めようか、と思う。レコードが見つかればより嬉しいが。