壊れる少し手前の永遠

好きなバンドについて書いていこうと思います。

サニーデイ・サービス「いいね!」新しい春の記録

バンドという枠組みから離れ、解体・再構築を繰り返した直近のアルバムの流れとは一線を画する、青春の記録としか表現しようのない35分29秒のロックンロールが、3月19日に突然手渡された。

柔らかなメロディ、優しい歌。ただ時代から目を背けた幻想の世界の歌、という印象は微塵も受けない。

「もし夜が来たなら ロックンロールを この体全体で表現してみたい」の歌詞通り、3人組のバンドが3人で音を鳴らす、という最もシンプルな形で世界と対峙したアルバムなのではないか、と感じる。

そう、ドラマーの大工原幹雄さんが正式なメンバーとして加入し、サニーデイはまた3人のバンドになった。

このアルバムには年明けに発表された「雨が降りそう」が収録されていない。たしかアルバムのリードトラック、とアナウンスされていた気がするが…。

1月のOPPA-LAで披露された新曲の内、アルバムに収録されているのは「春の風」のみであるし、今回もギリギリまで曲変更が行われたことは想像に難くない。

あの日のライブのヒリヒリとした感触は凄まじかった。生き急ぎ、断崖絶壁に向かって走るような。しかもそれが破れかぶれの疾走でなく、笑顔で突っ走る怖さがあった。

その暴走を生み出すエンジンは大工原さんのドラムだった。最初にそのドラミングを見た時、サニーデイは10代のパンクスをサポートに迎えたんだな、と本気で思った。ビートを刻むというよりも、剥き出しの心臓が目の前で鳴っている感覚。後ろから曽我部さんを睨みつけながら叩く(ように、ではなく本当に睨みつけていた)崩壊寸前の「セツナ」は息を飲むしかなかった。

この日はまだ大工原さんはサポートで、後日正式に加入するというアナウンスがあった。アルバムも4月リリース予定だったはずだが、延期ではなく前倒しというのも凄い。

アルバムタイトルの「いいね!」もある意味軽く、しかし何かを肯定するという正のエネルギーに満ちた言葉である。

過去の再現などからは産まれ得ない、バンドに訪れた何回目かの青春を余す所なく記録した音楽。

「雨が降りそう」は喪失の悲しみを歌っており、それは否が応でも丸山晴茂さんの不在を想起させる。名曲に違いないが、このアルバムに収まる場所がなくなってしまったのではないか。

 

「心に雲を持つ少年」の時点でワクワクと喜びがいきなり最高潮に達する。タイトルはやっぱりスミスからだろうか。曲終わりのピアノで「東京」を思い出す。

「OH!ブルーベリー」でふと顔を覗かせるですます調に思わず頬が緩む。

少し投げやりな「ぼくらが光っていられない夜に」。それでもメロディはたゆたうような明るさで溢れている。

ライブでも聞いた4曲目の「春の風」がたまらなく好きだ。真夜中なので我慢したが、サビで叫びたくなる。アルバムの中で、一瞬だけ死がよぎる歌。

続く「エントロピー・ラブ」で、もういてもたってもいられなくなる。歌詞が良すぎる。

「日傘をさして」はバンドの演奏が終わった後の最後20秒のギターが優しい。

「意味がなくたって生きていけるように祈ってる」と歌う「コンビニのコーヒー」。誰にだって生きている意味がある、という一見優しくも生に理由を強制する言葉を超える祈り。ただ生きていたいだけなのだ、どんな時代であっても。

「センチメンタル」のあじさい色、という言葉と「春はとっくに終わったのにね」のリフレインにドキッとする。ギターソロ前に曽我部さんが「間奏」と言うのが素敵。

ラストの「時間が止まって音楽が始まる」。

「いつか戻れるように」「いつか戻れますように」という切実な祈りを経て、また一曲目から再生する。

やめ時が分からないアルバム。この時点でもう午前3時だ。

 

絶望が存在することと、それに飲み込まれるのは別の事象だ、というメッセージを勝手にこのアルバムから受け取った。

新生というよりも、転がり続けることを選んだ、という言葉の方がしっくり来る。サニーデイ・サービス、その名前を口にするだけで少し勇気が生まれるロックバンド。

もうしばらくすればインタビューやプロのレビューが上がるだろうからそれを待つとして、それまでは自分のこの勝手な気持ちを乗せながらアルバムを聴いていこうと思う。

 

Rolls never end(と信じたい)

新型コロナ禍が収束の兆しすら見られない昨今、新たな規制対象としてライブハウスが槍玉にあげられている。

パチンコはどうなんだ、電車はどうするんだなどと言うつもりは毛頭ない。言っても無意味だ。

ライブハウスを批判している人に物申したいという訳でもない。ライブハウスに行ったこともない人間が批判している、というのもおかしな話だ。その理論で言うと、私は一生政権や上司を批判する権利は持ち得ない。あの地下室の密閉空間では換気もままならないし、ライブを見たくて集まった人が、道中でそれ以外の人に感染させてしまうリスクは確かに存在する。

間違ったことは言っていないし、正義は彼等にある。なので以下に書くことは全く建設的でない、感情論以外の何物でもない戯言、という前提での話。

 

きっと世の人間は東京事変以外のバンドを知らないのではないか、というくらいの集中砲火ぶりは、理屈を通り越して腹が立つ。彼等は間違っています、叩いていいですよ、と誘導された方向に群がる様は醜い。何一つ自分で調べようともせず、知っている、受け売りの知識のみで中止は賢明な判断です、なんてどの目線から、どの口が言うのか。更に苛立つのはチケットを持っているから中止になってホッとした、という意見。自分だけ損をするのが嫌だ、というのは分からないでもないが、ライブに行く行かない、それくらいのことも自分で決められんのか。そんなしょうもないことを外に晒すな。

 

これは私が音楽を好きだから今の世論が困る、という話ではおそらくない。

想像力の欠如が腹立たしいし恐ろしい。今正義と思われる側に立っている人間は、誰も自分の生活を社会的に不要だ、中止しろと国に判断されるとは露とも思っていないのだろう。

自分が袋叩きにしている人間が、自分と同じようにこの空の下で生活を営んでいる、という視点がすっぽり抜けている。

かく言う私もほっとけば無知な正義気取りを嬉々として行う人間であることは間違いない。情けない話だが、以前の職場で扱っていた製品が、韓国との問題の一連で輸出が危ぶまれた経験で、人ごとではなくなって初めて気がついた。

その時もネットには輸出規制は英断、これを批判するのは売国奴だ、という意見が目についた。彼等はその製品を売り暮らしている人間がいる、とは考えていなかっただろう。

想像力の欠如繋がりでもう一つ。娯楽という、彼等のいうところの、不要不急で生活に必要不可欠ではないものを作り出す人間が、ましてやそれに全身全霊をかけている人間が。止めろと言われてお利口にはい止めます、と割り切れるような物しか生み出していないとでも思っているのか。甚だしい侮辱だ。

 

何本も行きたいライブを見送った。レコードも買いに行っていない。引きこもって音楽と漫画と飲酒の日々だ。太ってしょうがない。ただ自分だけならともかく、お子さんのいる職場の方々に感染しでもしたら目も当てられない。おそらくこの判断は、現時点では間違っていないだろう。

 

想像する。きっとネットに書き込んでいる人も私と同じ、正体不明の不安に押しつぶされそうな日々を送っている。その出口、はけ口が欲しいのだろう。自分は正しいことを証明して心の安定をはかりたいのではないだろうか。

五十嵐さんは歌う、心なんて一生不安だ、と。

 

様々な方の英知と努力の結果ワクチンが生み出され、コロナ禍が収まり、元の日常が戻ったとして。元の生活に戻れない人はきっといる。その時に知らなかったんだ、私は悪くない、と言うのだろうか。いや、きっと気づきもしないのだろう。

私に出来ることはほとんどない。わずかな小遣いをやりくりして、好きなバンドのグッズを通販で買うくらいだ。

ただ私の部屋では、愛するバンドの音楽がずっと鳴り続けている。それは時代とは関係なく、ずっと変わらない。

 

今日の日記のタイトルはpealoutのラストアルバムから。never endと銘打ってこの後解散、というのは当時は凹んだが、近藤さんは今もかっこいいバンドを続けている。

rolls never end。この言葉を信じることしか今は出来ないが、本気で信じていることも確かだ。

忘れらんねえよ『週刊青春』 1ファンからの「俺よ届け」

昨年末、クリスマスプレゼントのように届いた忘れらんねえよの新譜「週刊青春」を繰り返し聴いている。そしてそれ以上に、受注生産版に付属する冊子「週刊青春」を繰り返し読んでいる。

結論から言うと、この本は死ぬまで私の本棚に入る大切な一冊となった。

 

冊子の中核である自伝小説「ばかもののすべて」は、恍惚と不安に揺れ動く青年の痛々しく、しかし青春としか呼びようのない過ぎ去った日々を描き切っている。

得られた成功や輝かしい瞬間はすぐに柴田さんの中から消え失せ、残るのはハードルを更に上げた成功への渇望と上手くいかなかった事への失望のみ。

女の子と上手く話さなければ、ドラムが正確でなければ、もっと売れなければ、思い描く「ロックスター」にならねば。

こうでなければいけない、という呪いに縛られ、大切なものを失っていく姿を見たくなくて、ページをめくる手は次第に重くなっていく。

「バンドマンが夢の中にいられる時間は短い」という一文がどうしようもなく切ない。

好きな子に下に見られていると勝手に思い込み、心の中で毒づく姿がつらい。

表現という正義の名の下にメンバーに罵詈雑言をあびせる姿は正視に耐えない。

自分が素晴らしいと信じる音楽を皆に届けたい、という軸は一切ブレていないはずなのに、その伝達が上手くいかず、空回り、傷付け合い、別れを繰り返すのが悲しい。

ステージからは、良くも悪くも遠くの景色が見える。最前列で熱狂するファンではなく、奥の方の通路を通り過ぎていく人ばかり目についてしまうのだろう。

小説の最後は、相棒とも言うべきベースの梅津さんの脱退ライブのステージに立つ瞬間で終わる。

しかし、ここでエンドロールは流れない。忘れらんねえよは今日もロックバンドとして活動しており、その事実だけで全ての過去を肯定しうる。これまでも青春だったし、これからもきっと青春なのだ、忘れらんねえよは。

 

本を読みながら、一度忘れらんねえよを嫌いになったことを思い出した。確か「童貞偽装」の時期。文字にすると本当にどうしようもない偽装だけど。 

当時感じたのは、そんなことで嘘をつくのか、という落胆だった。

まあバンドをやっていて、しかもそれが売れているバンドならモテないということは考えづらいが、結成当初から童貞を「売り」にしていた忘れらんねえよにとって、それは表現の根幹の一つだと思っていた。

異性から相手にされない、親しい関係を築くことができないイコール人間的欠陥、という負い目を抱えていた当時の自分にとって、忘れらんねえよがそれをネタとして扱ったのは正直ショックだった。

考えてみれば電通上がりのバンドマン、結局マーケティングで作り上げた(どんなマーケティングだ、とも思うが)キャラ設定だったのか、と。

まあアイドルでもボッチアピールをしているのを時折見かけるし、それに騙される人間は一定数いて、私もそれに当てはまったというだけなのだけれど。

何より悲しかったのは、柴田さん自身が憎んでいるであろうスクールカーストでいう所の1軍の一番イヤな所、相手を傷つけるだけの雑なイジリを真似したように見えたことだった。

結局おまえもそっち側か。

 

しかし今回の小説中で、自分で童貞偽装を企画しておきながら苦しみ、ファンの反応にダメージを受ける部分を読んで吹き出してしまい、当時のことを一瞬で許せてしまった(上から目線で申し訳ないが)。割り切れない、不器用、そして挙げ句の果ての明後日の方向のプロモーション。ダメな所がいいとまでは思わないが、他人事とは思えない人間臭さは、忘れらんねえよから離れることができない大きな要因の一つだ。

ただ、これからアルバムが何十万枚売れても、東京ドームでワンマンをすることができても、柴田さんの心は晴れないような気がする。アルバム曲「なつみ」のような、彼が心から愛する女性が彼を受け入れ、側にいてくれることでしか、柴田さんは自分を「ロックスター」だと信じることができないのではないか。

 

私はこれまで忘れらんねえよに沢山楽しい時間をもらった。大きなお世話を承知で、柴田さんに幸せになって欲しい、と切に願っている。そしてその幸せの絶頂で生まれた曲や、幸せな日々の中から捻り出してきたそんな事?と思うようなどうしようもない不平不満をベースにした曲が入ったアルバムを聞くことができればそれ以上の喜びはない。それまではこの最高のアルバムを繰り返し聞こうと思う。

 

あと本の中で一番好きなフレーズは、アルバムレビューでの「写真には映らない柴田の美しさ」という一節です。

 

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NUMBER GIRL 無観客ライブを見て(思想の話)

今日このライブを凄く楽しみにしていて、かつ、心底楽しんだ自分は、結局差別主義を受け入れる、自分の快楽を優先する人間なのだな、とビールを飲みながらパソコンの前でぼんやりしていた。

去年の今ごろだっただろうか、アヒトの声明文が公開されたのは。問題とされた歌詞は思想というよりも偏った知識から生まれた稚拙な文章という印象だったが、差別用語を使用した以上、誤解を与えたという言葉で逃げたことへの擁護は難しい。

私個人はなかなか作品と人物を切り離して考えることができない。しかも結局ウダウダ言いながら作品を優先するのだから、よりたちが悪い。先日も映画「音楽」を鑑賞しウキウキで帰ったものの、家でパンフを見ているとプロデューサーが大嫌いな人間と知って心底落ち込んだが、作品に罪はないと自分に言い聞かせて精神の安定を保ったのだった。

世の中の問題の大半は謝罪した風を装えばうやむやにできる、という事実を国のトップが堂々と積み重ねている以上、悲しいかなそれは有効な方法なのだろう。事実、ライブ開始直前まで私はアヒトの問題のことをすっかり忘れていた。

そこでブラウザを閉じなかった以上、自己弁護の余地はない。私はどうしても向井秀徳の「ドラムス、アヒトイナザワ」の一言が聞きたかった。

作品に罪はないが、それを受け入れる自分に罪はあるのではないか、きっとあるだろう。

ただ、どうしても高校生の頃、ガラガラの電車に乗り夕陽を眺め「OMOIDE IN MY HEAD」を聞きながら黄昏ていた自分を、いつかあんなドラムを叩けるようになりたいと「透明少女」を1人練習していた自分を否定したくない、という矮小な理由で全て見なかったことにしてしまう。

 

ライブは最高だった。

ナカケンもひさこもアヒトも、かつて憧れた姿まんまだった。向井さんはライブ中麻雀をしていたようで、かなり大勝ちしていた。

もしまた配信があれば必ず見るだろうし、チケットが取れれば喜び勇んでライブに行くだろう。モヤモヤしたまま、その上でそれに蓋をして。蓋をする以上、私はそちら側だ。

私は、ナンバーガールが、そしてアヒトのドラムが大好きだ。そう言い切る他ない。

 

そういえば私、スミスも大好きなんだよな。

どんどん思考は深みにはまっていく。

もう一杯飲んで、今日もうやむやにして眠る。

syrup16g SCAM:SPAM:SCUM 新木場2days 雑記

ここ最近、syrup16gの音楽を聞く頻度がめっきり減っていた。

そろそろ私も卒業かな、と思っていたのだが、この2日連続の無観客ライブを見てあっさり再燃。やはりそう簡単に抜け出せるものではなさそうだ。

そして無観客のフロアを見ながら、どうして最近syrup16gを聞かなかったのか、という理由に思い当たった。

ものすごく恥ずかしい、思い上がりも甚だしい事なのだけれど、syrup16gが「自分のバンド」でなくなった様な気がしていたのだ。

syrup16gを取り巻く環境は素晴らしいものだと思うし、このバンドがライブ毎に何かをすり減らす様な過去の状態に戻って欲しい、という気は全くないのだが、満員で盛り上がるフロアにどうしても馴染めない自分がいたことを否定できない。

他の客が嫌なら映像で我慢しろ、で終わる話なのだが、バンドと自分の1対1、という空間が好きだった老害としてはどこか拗ねた気持ちでいたように思う。

極め付けは去年のツアー、復帰後初めてチケットが取れなかったのだ。これは凹んだ。

もう古い客は用無しか、と後ろ向きの思い込みが加速し、syrup16gのアルバムから足が遠のいてしまっていた(それでなくても去年は台風クラブばかり聞いていたし)。

 

3人の演奏と歌声しか聞こえない、本来なら2000人を収容できるキャパを持つ新木場コースト。

客がいようがいまいがキレキレのライブをするメンバーを見ながら、私が間違っていた、と深く反省した。いつだって、どんな状況であってもsyrup16gは最高だ、という基本的なことをすっかり忘れていた。

それでなくてもこの2日間、五十嵐さんの声とギターはかなり状態が良かったし、セトリも普段聞けない曲ばかり。

念願の「光のような」を聞けて本当に嬉しかった。

MUSICAの巻頭特集を繰り返し読み、期待に胸を膨らませていた新バンド、犬が吠えるはたった一言を残して解散。残された音源をネットで繰り返し聞いていたあの頃を思い出した。

 

個人的に印象に残ったのは、初日の「旅立ちの歌」、2日目は「Thank you」。前向きな言葉を持つ楽曲が、その輝きを損なうことなく鳴らされていた。

syrup16gは、ことさらに自分の弱さを見せつけ「下からマウントをとってくる」ようなバンドでは決してない。

生きていく上で当たり前に前向きになったり落ち込んだりする日常が歌になり、それは今ここにない負の感情を商品のために無理矢理捻り出したものとは一線を画する。

だからこそどの楽曲も生まれた時代と関係なく、今に対峙する力を失わないのだろう。生きている、という状態に嘘など一つもないのだから。

 

「Mouth to Mouse 」とそれに続く「You Say 'No'」のリズム隊2人の優しいコーラス、そして12弦ギターの音色が沁みた。

「バナナの皮」のベースラインはいつだって可愛らしいし、「Your eyes closed」なんてもう慈愛の極地のような歌だ。

アンコールは2日とも定番曲が多かったが、そりゃ定番にもなるよな、という圧巻の演奏だった。そもそもsyrup16gの曲を定番、と感じられることの幸せを忘れかけていた。

 

まだまだ聞きたい曲がたくさんある。

いつか生で「パレード」を聞いて涙したい。

振替公演に行けるよう元気でいたいな、というのが、ライブが終わりモニターを眺めながら出た感想だ。

 

そう、うだうだ言いながらこの2daysのチケットは買っていたのだ。

変な漢字がでかでかと書かれたTシャツを着る生活はまだ終わりそうにない。

 

the MADRASとチューインガム・ウィークエンド/サブスク解禁についての雑記

この日を待ってました。

ブックオフディスクユニオンで「ち」の棚を眺めては落胆する、を繰り返していた日々から早幾年、遂に誰もが正規の手段でチューインガムウィークエンドの名盤を心ゆくまで堪能できる世界が到来。

 

更にこのタイミングでthe MADRASのアルバムまで解禁とは。

「あの娘をつかまえて」、「コールドフィーバー」、「ウォーターピストル」そして「ルーザー」。 

配信直後から聴き倒しています。

 

あまりサブスクに好意的ではなかったのですが(使っといて言うのもあれだけど)、こうして過去と現在の断絶を取り払い、歴史の中で埋もれかけていた音楽をあるべき場所へ戻すことができるのは素晴らしい。

 

とにかく色々な人に「キリングポップ」の凄さを知って欲しいし、「アイス」「ロマンス」「キラーベイブ」のシングルに収まりきらない名曲を聞いて欲しいし、1stの暖かい音の良さを再確認して欲しいし、そして何よりその音楽が今も鳴り止んでいないことを「awake」で感じて欲しい。

 

今は正直東京に行く勇気が出ませんが(満員電車などの交通機関が怖い)、イヤホンさえあれば四畳半の部屋だってライブハウス。

しばらくは音源を聴き込むことにしようと思います。

 

配信では飽き足らず、シングル「クロール」を箱から引っ張り出して聴いてます。

これがまたいいんだ。

YouTubeので申し訳ないけど今日の一曲を貼っておきます。

 


The Chewinggum Weekend - I.D.

 

 

the MADRAS 11/30 下北沢CLUB251 初ワンマンライブ備忘録

the MADRASの持ち曲があと100曲くらいあれば、まだこの幸せなライブが続くのに、と言うのが終演後の率直な気持ちでした。

 

既発曲が12曲、スターダストとエンドロールという橋本さん復活ライブから歌われている2曲、そして珠玉の新曲が4曲で計18曲。

the MADRAS現段階での総決算であると同時に、このバンドが未来へ繋がっているという希望、そして未来へ繋がって行くという意志を強く感じた素晴らしいライブでした。

 

最近加速度的にライブに行く回数が増えているのですが、この日は初めてライブハウスに入った時のように開演前はやたら緊張していました。

何回も後ろを振り返りながら早く埋まらないかな、とソワソワしたり、数十秒毎に時計を気にしたりと落ち着きのないことこの上なし。

最前列にも行きたいが常にバンド全体が見渡せる場所にいたい、という気持ちがこの日は特に強く、客席中央にあったテーブルに陣取り、反対側にいた外国の女性2人組のお酒の消費スピードにビビりながら開演を待つ私。

7時を十数分過ぎた所で客電が落ち、歓声の中ステージに上がるメンバー。遂に初ワンマンがスタートしました。

 

1曲目はアルバムと同様、幕開けはもうこれしかないという「ワンダー」。

歌詞の中、明日またきっとここで会えるよ、の「ここ」は、音楽が鳴り響いている今まさにここなんだ、と勝手に感動しながら丁寧に紡がれる歌声と演奏に聞き入っていました。

 

2曲目は「スタンド」。

初めてthe MADRASを聞いたのはフリーダウンロードシングルとして配信されたこの曲。イントロが始まった瞬間、ああ、このバンドだと感じたのが3年前でした。

サビと2番に入る間にバンドが溜める瞬間、木下さんが弾き倒すソロ、最後のコーラスの所が何回聞いてもたまらなく好きです。それはもちろんこの日も。

 

3曲目はthe MADRASの楽曲の中でも屈指の明るい曲調の「ハブファン」。客席からは自然発生的に手拍子も生まれました。

この辺りで緊張も解け始め、この特別なライブを心ゆくまで楽しもうというモードに変わっていきました。

 

この日初めてのMCと報告をはさみ、始まったのは(橋本さんの中で)懐かしい「スターダスト」と、続く「あの夏の僕ら」という最初期の楽曲。上田さんと2人で歌われた頃から、現在のバンド編成になるまでアレンジが変わってきたであろうこの2曲。

そんな歴史に思いを馳せながら、ゆっくりと身体をゆらしていました。

 

そして遂に演奏された「ルーザー」。個人的に最初のピークでした。「ホール」と甲乙つけがたいですが、この曲は最高です。

君は誰と笑うの、と繰り返す(最後の所loveかlaughか定かではないですが、laughの方が遠くから見ることしかできない感じがしてグッときます)、この世界では決してあなたと交われない孤独と疎外感を抱え、自分のことをエイリアンとすら呼ぶ主人公。

しかしそのストーリーが悲壮感だけでなく、夜空に月を探すようなある種の力強さに昇華されているのはバンドマジックとしか言いようがないでしょう。

 

リアルバースデー」はカップリングでありながらアルバムにも収録されており、バンドにとってもきっと大切な曲。

本当の誕生日、今の自分とは別の自分、ここではないどこかを探し求めてさまよう姿を、演奏が力強く肯定し。

「ルーザー」でも思いましたが、木下さんと安蒜さん2人のギタリストがいるのは凄くいい。

木下さんが一心不乱にソロを弾いている時に、安蒜さんが丁寧にコードを刻み、えらさんと共にバンドのリズムの手綱をしっかり握ることで曲の立体感が更に増している気がします。

 

「ホール」は空洞の中で響いているようなギターと、誰もいない空間で静かに漂うような橋本さんの歌声が重なり、静と動のコントラストが映える切ない名曲。

 

先の「ホール」が橋本さん復活ライブの1曲目なら、続く「エンドロール」はラストの曲。その時はピアノアレンジだったそう。

この2曲だけではないですが、共通するのは世界から断絶された、もしくは拒絶した私とあなたしかいない場所。

ミクロで近視的で、全てから守られると同時に遠ざけられるシェルターのような世界の中で、確かな何かを探す2人を否定するでもなく肯定するでもなく、その瞬間をスケッチした歌詞。胸の奥を掻き毟るようなアウトロのギターも素晴らしく、ぜひこのアレンジで録音した音源を聴きたい所です。

 

様々なことを乗り越えたアルバム制作を経て生まれたという新曲「アウェイク」。

theピーズの「トドメをはでにくれ」やフラワーカンパニーズの「吐きたくなるほど愛されたい」のような、そのアルバムタイトルを冠しながらそのアルバムには未収録、というタイプの曲ですが、先の例に漏れずこの「アウェイク」も名曲でした。

目を覚ましても夢のまま、というのは現実も夢のような美しさを持つという意味か、夢から抜け出せないという意味か。誰かに支えられ、また誰かを支えながら進む、というバンドの新たな宣誓のような曲は、えらさんのコーラスに彩られ力強い光を放っているようでした。

 

勢いよくドラムのカウントから始まる、バンドサウンド際立つ「リバース」、そして間髪入れず由緒正しいギターロックな名曲(さっきから何回名曲という言葉を使ったか、語彙のなさがただただ悲しい…)「スパークル」と力強い曲が続き、ライブもいよいよ佳境に入ります。

 

アルペジオから幕を開けるのはまたしても新曲の「エディット」。静かに始まり最後にエモーショナルなギターが炸裂する、どことなくチューインガムウィークエンドを思わせるの曲の後、橋本さんがメンバーに話しかけつつ橋本さん自身が語るスタイルの、この日初めての長いMCに入りました。

 

私は中学生の頃にブルーハーツでロックを知り、最初に行ったライブはハイロウズのものでした。彼らは毎年アルバムを出し、全国の大きいハコをくまなく回るワンマンツアーを行っており、バンドとはそういうものなのだ、と何となく思っていました。

しかし、アルバムを出す、ワンマンライブを行うということは、決して誰にでもできる当たり前の事ではない、ということを今回改めて知ることになりました。

メンバー1人1人が語るアルバム、ワンマンライブ、そしてバンドに対する強い思いを聞きながら、バンドを続けること、他人同士が苦楽を共にしながら作品を生み出すことの難しさ、尊さ、そしてその結晶を享受できることへの喜びと感謝を感じずにはいられませんでした。

 

どんなバンドも、人間という生き物が集っている以上、いつか必ず終わりが来ます。それはthe MADRASも例外ではないでしょう。

でも今だけは、永遠と言うあり得ない奇跡を信じていたい。

 

この日、下北沢だけでもいくつものライブが行われていました。きっと世界中でライブが行われ、バンドの数だけ奇跡があり、それを信じる人がいて。

そうである限り、時代とは関係なくロックンロールは鳴り止まず、バンドは転がり続けていくのでしょう。

 

次で最後のブロックだよ、という木下さんの紹介で始まったのは、the MADRASというバンドの始まりの曲であると言う「ロスト」。

憧れを汚してしまった、という歌詞が切なく胸にささります。

以前読んだ山川直人さんの漫画で、自分を1番裏切ってきたのは自分だ、という一節がありました。

他者からは推し量ることしか出来ませんが、きっと橋本さんもいくつもの挫折や苦悩を経験されたのだと思います。

ただ立ち止まりながらも、消えたくなる夜を超え、歩くことを橋本さんがやめなかったからこそ、この日the MADRASというバンドが存在し、「最果て真っ直ぐ見つめたら 世界はいつも綺麗だった」という力強い歌詞を、最高のメロディと演奏に乗せて歌う橋本さんに出会うことができたのです。

 

初めてチューインガムウィークエンドを聞いた時点でそのバンドは既になく、伝説の存在になっていました。

続く「ハピネス」も、「駄目になってしまった だけどきっと 続きがあるんだ」という歌詞で始まります。続きがある、次を信じられる、なんたる幸せなことか。

木下さんと安蒜さん2人が前に出てそれぞれのギターを鳴らした瞬間がこの日の個人的ハイライトでした。きっとこの演奏はこの日にしか出来ないはず。ライブアルバム出ないかな…

 

本編最後を飾るのは、1stシングルであり、やはりアルバムと同じく「デイドリーマー」。残る力を全て振り絞るような演奏、そしてステージに崩れ落ちながらギターを掻き鳴らす木下さん。アルバムリリースツアーのファイナルに相応しい大円団でした。

 

メンバーはステージを降りますが、もちろんもっと曲を聞きたい、厳密に言えば最後に「ラフ」を聞きたいという皆の思いが、決して予定調和ではないアンコールを求める手拍子に変わります。

 

the MADRASシャツとこの日発売のシャツに着替えステージに戻ったメンバーによる、微笑ましい促販コーナーをはさみ(えらさんほど詳しく、そしてシャツのコーディネートの仕方まで紹介してくれるMCは、後にも先にも服屋以外で聞いたことのないものでした)、始まったのはまさかの新曲「シュガーラッシュ」。

ノイジーで、オルタナで、圧倒的強度を持つメロディーで。これはもう最高としか表現しようがない。体が意志より先に動き出し、口から声にならない声が溢れ。こんな新曲があるなら、来たるべき2ndアルバムはとんでもない傑作になるのは間違いありません。

 

パシッと潔くかっこよく終わる「シュガーラッシュ」、そして手拍子に合わせ最後のメンバー紹介が行われた後、遂に始まる「ラフ」。1、2、3、4というドラマーの掛け声ほど素敵なものって中々ないですな。

それにしても歌詞を全文書き起こしたくなるような素晴らしい曲、そして完璧な演奏。

こんなバンドを独り占めするにはあまりにももったいない。少しでも多くの人に聞いてもらいたい。きっと生涯聴き続けることのできるCDが棚に1枚増えるはず。

 

こうして、特別な、そしてこれからもこんな夜が来て欲しいと心から願うことのできる、素晴らしいライブは幕を閉じました。

 

 

ライブから既に1週間以上が経過し、細部の記憶が少しずつ失われる中でようやく備忘録を書き終えました。書きながら思い出すスタイル。

それにしてもシュガーラッシュは良かった。そして終演後に飲んだビールは本当に美味しかった。

その熱覚めやらぬまま、次の日私は新宿の紀伊國屋の上にあるディスクユニオンで人生で1番高いレコード(クロマニヨンズの4thアルバム)を買い、伊勢丹で彼女へのクリスマスプレゼントを買い、トドメに秋葉原でアホ程高いレコードプレーヤー一式を購入し。

クレジットカードの引き落としに戦々恐々としながら東京を後にしたのでした。

 

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