壊れる少し手前の永遠

好きなバンドについて書いていこうと思います。

オフコース「別れの情景(1)」

ここ数日はオフコースの2nd「この道をゆけば/オフ・コース・ラウンド2」と3rd「ワインの匂い」を繰り返し聴いている。

ブルーハーツを入り口としてロックを聞き始める前、父の影響でチューリップやオフコース、母からの影響で岡村孝子アルフィーを好んで聞いていた小学生時代。引きこもるしかない週末を重ね、またあの頃の歌を熱心に聞くようになっている。リスナーとしてはどんどん終わっている自覚はあるが、好きなものはやっぱり好きだ。

しかし、当然ながら小学生の頃と今の私では好みは少し変わっている。オフコースを例にあげれば、当時は「さよなら」に代表されるバンド編成の曲が好きだったが、今は2人の頃のオフコースが最高に心にくる。

特に2nd収録の「別れの情景(1)」がここ数日のヘビーローテーション。サビで転調がある曲なのだが、そのサビに入る直前、キーを跨ぐ瞬間の小田さんの歌声が本当にいい。そして美しいコーラス、たまらない。

また以前のように東京でレコード屋に行けるようになったら、真っ先にこのアルバムを探しに行こう、と思う。

 

確か昔アルフィーの坂崎さんがこの客をラジオで弾き語っていた気がするのだか、ギター1本だとその転調がより際立ち、感動して鳥肌が立った記憶がある。youtubeのどこかにあったりしないだろうか。

 

Amazon Musicにあるオフコースの別れの情景 (1)を紹介します https://music.amazon.co.jp/albums/B0045OXDGK?do=play&trackAsin=B0045OZF98&ref=dm_sh_zd4yBpaDyOAqNALYsdrCACNe0

 

台風クラブ「下宿屋ゆうれい」

まだ音源になっていない、タイトルの表記が合っているのかどうかすら分からない曲。昨年の夏、金沢のライブハウスでイントロが流れた瞬間から心を奪われ、それはそのまま帰ってきていないような気がしてならない。

頭の中で何回も再生しているうちに、もしかしたら原曲とは違うものになっているかもしれない。それでも、記憶をたぐりながら今日も再生ボタンを押す。

歌詞もうろ覚えだけれど、いくつもグッとくる瞬間があった。

「眠れない夜に現れて いかしたダンスで床をうつ」という、もうロックそのものを歌ったような一節(があった気がする)。

「さっき同じ匂いがして 振り返って返事しても 間に合わない」という、情景と切なさがダイレクトに伝わってくる一節(があった気がする)。

そしてとにかくイントロが良かった、人生で一番好きなイントロはもしかしたらこの曲かも、というくらい好き。

ぜひPVは歌詞に沿ったショートムービーのような映像を作って欲しい。四畳半、窓が開き風でカーテンが揺らめく部屋の中、じっと遠くを見つめたり演奏したりする3人の絵が私の頭の中で勝手に出来上がっている。

年頭の1月に行われた台風クラブ/曽我部恵一/キイチビールのファンダンゴでの3マンでもこの歌は歌われた(今の所私がいった最後のライブ)。今年は7インチをたくさん作る、というあの日のMCを本気で信じているし、心から楽しみにしている。もしこの曲が収録されるのならば、これ程嬉しいことはない。

 

向こう1週間の未来すら不透明だが、その先にあるであろう希望を全部放り投げるつもりはない。心穏やかでない夜、まずはコーヒーを飲みながら部屋に流す曲を選ぶ。

GEZAN「東京」

東京という記号に無根拠な希望を担保する能力はすでになく、煌びやかな情景は架空の世界を創り出すという強い意志をベースとしたポップスの中でしか存在し得ない。
都市が本来持つ混沌の入れ物としての機能も、表層のみの健全化によって失われつつあるように感じる。
それでもこの場所で様々な人が住まい、何らかの幸せを求める生活が存在するのは不変のはずだ。
「この街に意味はないよ 命に用があるの」と歌うgezanの「東京」は、分水嶺に立つ都市と人の姿を一切のフィルターをかけず直視すると共に、bpm100で刻まれる心肺蘇生への祈りが込められた、今すぐにでも刷新されるべき名曲だ。2020年を象徴するなどともて囃している時間はない。この曲が普遍性を持つ未来は東京の名を冠す新たな名曲が生まれ得ぬ世界なのではないか。そして答えを出すことができるのはこのバンドでも東京と呼ばれる場所でもなく、それぞれの街で生きている自分だけだ。


あるライター講座に参加するため、お題として書いた400文字。これを書いたのが今年の頭。
ライブにすら行けなくなる未来がこんなにあっという間に来るとは露ほども考えていなかった。
我ながら、よくも偉そうに上っ面のことを書いたな、と思う。

毎日更新される、フィクションですら思いつかないような愚劣な政策に全ての気力を刈り取られそうになる。

仕事と寝ている時以外はほとんど音楽を聴いている。
家から出ないのにレコードを買うペースは全く落ちない。
これまで音楽のために生きている、と思うことがあったが、音楽によって生かされていたことを実感する日々。

これから毎日、なるべく頑張って日記を書こうと思う。
好きな人と好きな歌のことを考える時間を増やす、それが今、4畳半の部屋でできるすべてのことのような気がしている。


GEZAN / 東京 (Official MUSIC Video)

サニーデイ・サービス「いいね!」新しい春の記録

バンドという枠組みから離れ、解体・再構築を繰り返した直近のアルバムの流れとは一線を画する、青春の記録としか表現しようのない35分29秒のロックンロールが、3月19日に突然手渡された。

柔らかなメロディ、優しい歌。ただ時代から目を背けた幻想の世界の歌、という印象は微塵も受けない。

「もし夜が来たなら ロックンロールを この体全体で表現してみたい」の歌詞通り、3人組のバンドが3人で音を鳴らす、という最もシンプルな形で世界と対峙したアルバムなのではないか、と感じる。

そう、ドラマーの大工原幹雄さんが正式なメンバーとして加入し、サニーデイはまた3人のバンドになった。

このアルバムには年明けに発表された「雨が降りそう」が収録されていない。たしかアルバムのリードトラック、とアナウンスされていた気がするが…。

1月のOPPA-LAで披露された新曲の内、アルバムに収録されているのは「春の風」のみであるし、今回もギリギリまで曲変更が行われたことは想像に難くない。

あの日のライブのヒリヒリとした感触は凄まじかった。生き急ぎ、断崖絶壁に向かって走るような。しかもそれが破れかぶれの疾走でなく、笑顔で突っ走る怖さがあった。

その暴走を生み出すエンジンは大工原さんのドラムだった。最初にそのドラミングを見た時、サニーデイは10代のパンクスをサポートに迎えたんだな、と本気で思った。ビートを刻むというよりも、剥き出しの心臓が目の前で鳴っている感覚。後ろから曽我部さんを睨みつけながら叩く(ように、ではなく本当に睨みつけていた)崩壊寸前の「セツナ」は息を飲むしかなかった。

この日はまだ大工原さんはサポートで、後日正式に加入するというアナウンスがあった。アルバムも4月リリース予定だったはずだが、延期ではなく前倒しというのも凄い。

アルバムタイトルの「いいね!」もある意味軽く、しかし何かを肯定するという正のエネルギーに満ちた言葉である。

過去の再現などからは産まれ得ない、バンドに訪れた何回目かの青春を余す所なく記録した音楽。

「雨が降りそう」は喪失の悲しみを歌っており、それは否が応でも丸山晴茂さんの不在を想起させる。名曲に違いないが、このアルバムに収まる場所がなくなってしまったのではないか。

 

「心に雲を持つ少年」の時点でワクワクと喜びがいきなり最高潮に達する。タイトルはやっぱりスミスからだろうか。曲終わりのピアノで「東京」を思い出す。

「OH!ブルーベリー」でふと顔を覗かせるですます調に思わず頬が緩む。

少し投げやりな「ぼくらが光っていられない夜に」。それでもメロディはたゆたうような明るさで溢れている。

ライブでも聞いた4曲目の「春の風」がたまらなく好きだ。真夜中なので我慢したが、サビで叫びたくなる。アルバムの中で、一瞬だけ死がよぎる歌。

続く「エントロピー・ラブ」で、もういてもたってもいられなくなる。歌詞が良すぎる。

「日傘をさして」はバンドの演奏が終わった後の最後20秒のギターが優しい。

「意味がなくたって生きていけるように祈ってる」と歌う「コンビニのコーヒー」。誰にだって生きている意味がある、という一見優しくも生に理由を強制する言葉を超える祈り。ただ生きていたいだけなのだ、どんな時代であっても。

「センチメンタル」のあじさい色、という言葉と「春はとっくに終わったのにね」のリフレインにドキッとする。ギターソロ前に曽我部さんが「間奏」と言うのが素敵。

ラストの「時間が止まって音楽が始まる」。

「いつか戻れるように」「いつか戻れますように」という切実な祈りを経て、また一曲目から再生する。

やめ時が分からないアルバム。この時点でもう午前3時だ。

 

絶望が存在することと、それに飲み込まれるのは別の事象だ、というメッセージを勝手にこのアルバムから受け取った。

新生というよりも、転がり続けることを選んだ、という言葉の方がしっくり来る。サニーデイ・サービス、その名前を口にするだけで少し勇気が生まれるロックバンド。

もうしばらくすればインタビューやプロのレビューが上がるだろうからそれを待つとして、それまでは自分のこの勝手な気持ちを乗せながらアルバムを聴いていこうと思う。

 

Rolls never end(と信じたい)

新型コロナ禍が収束の兆しすら見られない昨今、新たな規制対象としてライブハウスが槍玉にあげられている。

パチンコはどうなんだ、電車はどうするんだなどと言うつもりは毛頭ない。言っても無意味だ。

ライブハウスを批判している人に物申したいという訳でもない。ライブハウスに行ったこともない人間が批判している、というのもおかしな話だ。その理論で言うと、私は一生政権や上司を批判する権利は持ち得ない。あの地下室の密閉空間では換気もままならないし、ライブを見たくて集まった人が、道中でそれ以外の人に感染させてしまうリスクは確かに存在する。

間違ったことは言っていないし、正義は彼等にある。なので以下に書くことは全く建設的でない、感情論以外の何物でもない戯言、という前提での話。

 

きっと世の人間は東京事変以外のバンドを知らないのではないか、というくらいの集中砲火ぶりは、理屈を通り越して腹が立つ。彼等は間違っています、叩いていいですよ、と誘導された方向に群がる様は醜い。何一つ自分で調べようともせず、知っている、受け売りの知識のみで中止は賢明な判断です、なんてどの目線から、どの口が言うのか。更に苛立つのはチケットを持っているから中止になってホッとした、という意見。自分だけ損をするのが嫌だ、というのは分からないでもないが、ライブに行く行かない、それくらいのことも自分で決められんのか。そんなしょうもないことを外に晒すな。

 

これは私が音楽を好きだから今の世論が困る、という話ではおそらくない。

想像力の欠如が腹立たしいし恐ろしい。今正義と思われる側に立っている人間は、誰も自分の生活を社会的に不要だ、中止しろと国に判断されるとは露とも思っていないのだろう。

自分が袋叩きにしている人間が、自分と同じようにこの空の下で生活を営んでいる、という視点がすっぽり抜けている。

かく言う私もほっとけば無知な正義気取りを嬉々として行う人間であることは間違いない。情けない話だが、以前の職場で扱っていた製品が、韓国との問題の一連で輸出が危ぶまれた経験で、人ごとではなくなって初めて気がついた。

その時もネットには輸出規制は英断、これを批判するのは売国奴だ、という意見が目についた。彼等はその製品を売り暮らしている人間がいる、とは考えていなかっただろう。

想像力の欠如繋がりでもう一つ。娯楽という、彼等のいうところの、不要不急で生活に必要不可欠ではないものを作り出す人間が、ましてやそれに全身全霊をかけている人間が。止めろと言われてお利口にはい止めます、と割り切れるような物しか生み出していないとでも思っているのか。甚だしい侮辱だ。

 

何本も行きたいライブを見送った。レコードも買いに行っていない。引きこもって音楽と漫画と飲酒の日々だ。太ってしょうがない。ただ自分だけならともかく、お子さんのいる職場の方々に感染しでもしたら目も当てられない。おそらくこの判断は、現時点では間違っていないだろう。

 

想像する。きっとネットに書き込んでいる人も私と同じ、正体不明の不安に押しつぶされそうな日々を送っている。その出口、はけ口が欲しいのだろう。自分は正しいことを証明して心の安定をはかりたいのではないだろうか。

五十嵐さんは歌う、心なんて一生不安だ、と。

 

様々な方の英知と努力の結果ワクチンが生み出され、コロナ禍が収まり、元の日常が戻ったとして。元の生活に戻れない人はきっといる。その時に知らなかったんだ、私は悪くない、と言うのだろうか。いや、きっと気づきもしないのだろう。

私に出来ることはほとんどない。わずかな小遣いをやりくりして、好きなバンドのグッズを通販で買うくらいだ。

ただ私の部屋では、愛するバンドの音楽がずっと鳴り続けている。それは時代とは関係なく、ずっと変わらない。

 

今日の日記のタイトルはpealoutのラストアルバムから。never endと銘打ってこの後解散、というのは当時は凹んだが、近藤さんは今もかっこいいバンドを続けている。

rolls never end。この言葉を信じることしか今は出来ないが、本気で信じていることも確かだ。

忘れらんねえよ『週刊青春』 1ファンからの「俺よ届け」

昨年末、クリスマスプレゼントのように届いた忘れらんねえよの新譜「週刊青春」を繰り返し聴いている。そしてそれ以上に、受注生産版に付属する冊子「週刊青春」を繰り返し読んでいる。

結論から言うと、この本は死ぬまで私の本棚に入る大切な一冊となった。

 

冊子の中核である自伝小説「ばかもののすべて」は、恍惚と不安に揺れ動く青年の痛々しく、しかし青春としか呼びようのない過ぎ去った日々を描き切っている。

得られた成功や輝かしい瞬間はすぐに柴田さんの中から消え失せ、残るのはハードルを更に上げた成功への渇望と上手くいかなかった事への失望のみ。

女の子と上手く話さなければ、ドラムが正確でなければ、もっと売れなければ、思い描く「ロックスター」にならねば。

こうでなければいけない、という呪いに縛られ、大切なものを失っていく姿を見たくなくて、ページをめくる手は次第に重くなっていく。

「バンドマンが夢の中にいられる時間は短い」という一文がどうしようもなく切ない。

好きな子に下に見られていると勝手に思い込み、心の中で毒づく姿がつらい。

表現という正義の名の下にメンバーに罵詈雑言をあびせる姿は正視に耐えない。

自分が素晴らしいと信じる音楽を皆に届けたい、という軸は一切ブレていないはずなのに、その伝達が上手くいかず、空回り、傷付け合い、別れを繰り返すのが悲しい。

ステージからは、良くも悪くも遠くの景色が見える。最前列で熱狂するファンではなく、奥の方の通路を通り過ぎていく人ばかり目についてしまうのだろう。

小説の最後は、相棒とも言うべきベースの梅津さんの脱退ライブのステージに立つ瞬間で終わる。

しかし、ここでエンドロールは流れない。忘れらんねえよは今日もロックバンドとして活動しており、その事実だけで全ての過去を肯定しうる。これまでも青春だったし、これからもきっと青春なのだ、忘れらんねえよは。

 

本を読みながら、一度忘れらんねえよを嫌いになったことを思い出した。確か「童貞偽装」の時期。文字にすると本当にどうしようもない偽装だけど。 

当時感じたのは、そんなことで嘘をつくのか、という落胆だった。

まあバンドをやっていて、しかもそれが売れているバンドならモテないということは考えづらいが、結成当初から童貞を「売り」にしていた忘れらんねえよにとって、それは表現の根幹の一つだと思っていた。

異性から相手にされない、親しい関係を築くことができないイコール人間的欠陥、という負い目を抱えていた当時の自分にとって、忘れらんねえよがそれをネタとして扱ったのは正直ショックだった。

考えてみれば電通上がりのバンドマン、結局マーケティングで作り上げた(どんなマーケティングだ、とも思うが)キャラ設定だったのか、と。

まあアイドルでもボッチアピールをしているのを時折見かけるし、それに騙される人間は一定数いて、私もそれに当てはまったというだけなのだけれど。

何より悲しかったのは、柴田さん自身が憎んでいるであろうスクールカーストでいう所の1軍の一番イヤな所、相手を傷つけるだけの雑なイジリを真似したように見えたことだった。

結局おまえもそっち側か。

 

しかし今回の小説中で、自分で童貞偽装を企画しておきながら苦しみ、ファンの反応にダメージを受ける部分を読んで吹き出してしまい、当時のことを一瞬で許せてしまった(上から目線で申し訳ないが)。割り切れない、不器用、そして挙げ句の果ての明後日の方向のプロモーション。ダメな所がいいとまでは思わないが、他人事とは思えない人間臭さは、忘れらんねえよから離れることができない大きな要因の一つだ。

ただ、これからアルバムが何十万枚売れても、東京ドームでワンマンをすることができても、柴田さんの心は晴れないような気がする。アルバム曲「なつみ」のような、彼が心から愛する女性が彼を受け入れ、側にいてくれることでしか、柴田さんは自分を「ロックスター」だと信じることができないのではないか。

 

私はこれまで忘れらんねえよに沢山楽しい時間をもらった。大きなお世話を承知で、柴田さんに幸せになって欲しい、と切に願っている。そしてその幸せの絶頂で生まれた曲や、幸せな日々の中から捻り出してきたそんな事?と思うようなどうしようもない不平不満をベースにした曲が入ったアルバムを聞くことができればそれ以上の喜びはない。それまではこの最高のアルバムを繰り返し聞こうと思う。

 

あと本の中で一番好きなフレーズは、アルバムレビューでの「写真には映らない柴田の美しさ」という一節です。

 

www.youtube.com

 

NUMBER GIRL 無観客ライブを見て(思想の話)

今日このライブを凄く楽しみにしていて、かつ、心底楽しんだ自分は、結局差別主義を受け入れる、自分の快楽を優先する人間なのだな、とビールを飲みながらパソコンの前でぼんやりしていた。

去年の今ごろだっただろうか、アヒトの声明文が公開されたのは。問題とされた歌詞は思想というよりも偏った知識から生まれた稚拙な文章という印象だったが、差別用語を使用した以上、誤解を与えたという言葉で逃げたことへの擁護は難しい。

私個人はなかなか作品と人物を切り離して考えることができない。しかも結局ウダウダ言いながら作品を優先するのだから、よりたちが悪い。先日も映画「音楽」を鑑賞しウキウキで帰ったものの、家でパンフを見ているとプロデューサーが大嫌いな人間と知って心底落ち込んだが、作品に罪はないと自分に言い聞かせて精神の安定を保ったのだった。

世の中の問題の大半は謝罪した風を装えばうやむやにできる、という事実を国のトップが堂々と積み重ねている以上、悲しいかなそれは有効な方法なのだろう。事実、ライブ開始直前まで私はアヒトの問題のことをすっかり忘れていた。

そこでブラウザを閉じなかった以上、自己弁護の余地はない。私はどうしても向井秀徳の「ドラムス、アヒトイナザワ」の一言が聞きたかった。

作品に罪はないが、それを受け入れる自分に罪はあるのではないか、きっとあるだろう。

ただ、どうしても高校生の頃、ガラガラの電車に乗り夕陽を眺め「OMOIDE IN MY HEAD」を聞きながら黄昏ていた自分を、いつかあんなドラムを叩けるようになりたいと「透明少女」を1人練習していた自分を否定したくない、という矮小な理由で全て見なかったことにしてしまう。

 

ライブは最高だった。

ナカケンもひさこもアヒトも、かつて憧れた姿まんまだった。向井さんはライブ中麻雀をしていたようで、かなり大勝ちしていた。

もしまた配信があれば必ず見るだろうし、チケットが取れれば喜び勇んでライブに行くだろう。モヤモヤしたまま、その上でそれに蓋をして。蓋をする以上、私はそちら側だ。

私は、ナンバーガールが、そしてアヒトのドラムが大好きだ。そう言い切る他ない。

 

そういえば私、スミスも大好きなんだよな。

どんどん思考は深みにはまっていく。

もう一杯飲んで、今日もうやむやにして眠る。