壊れる少し手前の永遠

好きなバンドについて書いていこうと思います。

深浦康市九段指導対局会 10/8 ねこまど将棋教室 備忘録

 5月の深浦・佐々木両先生、沼津・棋聖戦での青野先生に続き、今回3回目の指導対局を受ける機会を得た。

 将棋は小学生の頃に覚えたが、父と弟に全く勝てず辞めてしまって以降は見るだけの趣味だった。コンピューター相手の将棋すらめったに指さない私が20数年ぶりに一念発起して将棋の勉強を再開したのは、深浦先生の指導対局を受けたかったからだ。大盤解説などのイベントで面白いトークを聞くのも悪くないが、やはり先生と盤を挟んでみたいという思いを昔から持っていた。
 深浦・佐々木両先生の指導対局会がある事を知った時点で駒落ちの定跡すら覚えていないレベルだったため躊躇したが、今行動に移さないと一生将棋をしないという確信があったため意を決して予約ボタンを押した。この頃すでに精神状態が悪かったため、憧れの先生に会って元気をもらいたいという理由も大きかった。
 指導対局までの1ヶ月、腹を括って必死に勉強したと言えれば良かったのだが、結局6枚落ち定跡の暗記のみ、でも角は切りたくないなーレベルの勉強しかしなかった自分にはかなり失望した。

 初めての指導対局は、深浦先生が佐々木先生をいじったり和気藹々とした空気でとても楽しかったが、始まる前から緊張でガチガチ、やはり来るべきではなかったと後悔もした。深浦先生が自分の盤前に回って来られても恥ずかしくて前を見れなかったが、次第に次の手を考えるために盤から目を離せなくなった。端攻めの飛車は成れず、2回詰みを指摘され、最後は1手パスの手を指していただくなど如何ともしがたい盤面。こんな将棋ではどうしようもならんよなとは思ったが、1時間程将棋のことだけを考えている間の興奮、充足及び高揚はこれまでに感じたことがないものだった。指導対局が終わった後は足に力が入らず、脳が強烈に糖を欲していた。
 指導後に両先生に揮毫していただいた色紙は額に飾り毎朝見るようにしている。この時撮って貰った写真を妻に見せ指摘されるまで気がつかなかったのだが、佐々木先生と私の足の長さがあまりにも違うことに心底驚いた。おまけに私の靴の向きのせいで、UFOに連れ去られ浮いているようにしか見えなかった。

 その後駒落ち定跡の本を購入し勉強を始めたが、文章が脳を素通りして入ってこない。将棋の中継を見るだけで酷く疲れ、会社でもメールの内容が全く頭に入らないことが増えていった。その後は転がるように体調が悪くなり結局休職となったが、思えばこの段階で休むべきだった。

 薬が効いた実感もなく希死念慮は高まる一方。習慣にしようと頑張った朝の散歩にも次第に出られなくなって行った。ライブのチケットを取って無理やり仮の目標をつくっては結局行けずを繰り返す日々。「うつ病九段」をはじめ、先崎先生のエッセイだけは頭に入って来たので繰り返し読んでいた。
 休職期間の延長が決まった日、深浦先生の指導対局があることを知った。もちろん将棋の勉強などしておらず、指したい気持ちもなかったのだが、何も考えず予約してしまった。指導の枠を埋めてしまうにも関わらず、どうせ行けないんだからどうでもいいや、という身勝手な思考があったことは否めない。

 10月の頭、少し体が軽い時間があった。将棋しないと、という強迫観念にかられ、ぴよ将棋をインストール。駒落ち設定出来るんだな、と何とはなしに対局を始めた瞬間、何かのスイッチが入ったのが分かった。とてつもなく楽しい、初めての指導対局で感じたあの気持ち。時間を忘れ、文字通り朝から晩までひたすら6枚落ちを指し続けた。空腹も全く感じなかった。定跡を指しても私の棋力ではすぐ潰れる。玉を囲うため、美濃囲いを試す。少しずつ勝てるようになりぴよ将棋のレベルを上げる。また潰れるので高美濃や銀冠の組み方を調べ、また試す。ヒントを見たり待ったをしたり、少しずつ良さそうな攻め方が分かってくる(ような気になった)。指導対局直前ではあったが、将棋の、そして大げさではなく生きる喜びを思いだすことができた。この日から体調がかなり良くなり、そして深浦先生に会いたくなった。

 10月8日朝、体の怠さはあったが、これはうつ由来ではなく緊張のためであるような気がした。妻にホテルを予約してもらい四ツ谷に向かう。18時半スタートの回を予約した気になっていたが、実際は16時スタートであることに電車内で気がつき非常に焦った。何とか間に合う便に乗っていて良かった。普段からせっかちである気性が今回は良い方に転がった。

 指導対局開始を待つ時間は以前と同じくガチガチだったが、今回は水を持ち込み事前にチョコを食べるなど対策は講じてきた。
 定時になり、深浦先生が挨拶された後指導対局が始まった。佐々木先生がいた以前とは違い、厳かな雰囲気で身が縮こまった。四間飛車、高美濃で駒組を進めたが、位を取った銀を攻められた時に引いたのが破滅の始まりで(ぴよ将棋で同じ局面は何度もあったが、銀を切るよりも引いたほうが何とかなったためこの手を選んだが間違いだったようだ)、角も取られるのを恐れて逃げ回り機能せず、飛車は成ったものの攻めは細く、後は上から囲いを剥がされなすすべなし、といった対局だった。勉強した気にはなっていたが所詮は付け焼き刃。先生が自分の盤前にいる時は全く顔を見れなかったので、他盤の感想戦をしている姿を眺め、自玉の詰みを何度も確認し、水を飲んで姿勢を直し、対局終了時間ちょうどに投了した(というかもう1手詰めまで行ってしまった)。逃げ回った挙句の角が最後に玉の退路を塞いでいた。普通に悔しかったし、悔しさを感じている自分が可笑しかった。
 感想戦では、銀を攻められた時に引くのではなく歩を取って前に進んだ変化を教えていただいた。銀が死んでも角を切れば飛車があっさりと成りこめ、攻めが繋がることに驚いた。将棋は前に進めば何とかなるから、と深浦先生。失うのを恐れてジリ貧になるという、自分自身のような将棋を指していた。

 自分語りをすると、志望大学に落ちた後、外部の大学院に進むためずっと化学の勉強をしていた時、心の支えは深浦先生だった。大学3年の夏、図書室に篭って回答すら英語で書かれさっぱり分からないマクマリーを解いていた。同じテーブルにはイチャつくカップルがおり、いつまでもペーパーテストに囚われる自分が惨めになり涙してしまったことがある。ここで踏ん張らなければ道が閉ざされてしまう。深浦先生が盤に対峙する姿を思い出しながら、泣きながら必死にページをめくっていた日々を思い出すと今でも泣きそうになる。奨励会時代に深浦先生が負けた夜は将棋盤を抱いて泣いたというエピソードを後に知った時、私は深浦先生と同じだったのか、と感動した(全くレベルが違うが)。
 その後なんとか志望した研究室には入れたが、内部生の知識や研究センスは段違いだった。すり減りながらしがみつこうともがき続け、入社した会社も家賃が高く、思えば10年以上背伸びを続けたまま生きてきたかもしれない。次第に今持っているものを失いたくない、傷つきたくないが最優先になった。深浦先生の終盤の粘りは敗北を先延ばしするためではなく、その先の僅かな勝利の可能性を手繰り寄せるためであることを忘れ、前に進むという発想が削られ、受けにならない受けを続けている間に結局折れてしまった。その時その時でやれることはやったつもりだし、人生を何度やり直しても今以上は望めないように思う。そうなると、初手から、生まれてきたことが間違いだった、という結論に達してしまうし、実際そうだろうと思う。
 ただ、深浦先生と盤を挟むという長年の夢が叶えられた、その1点でこれまでの人生を肯定してもいいのではないかと昨日は本気で思うことができた。一時の高揚であったとしても、こんな気持ちを持てたこと自体がいつ以来か分からない。気の迷いでも、この気持ちを信じてみたい。

 この日の指導を忘れないため、先生にご無理を言って「前進」と揮毫していただいた。私はサインをもらう、という行為が非常に好きだ。楽しかった気持ちは忘れてしまうが、モノが残ることでそれがセーブポイントの役割を果たしてくれるような気がするからだ。ホテルに戻り色紙を眺める。墨が微かに香った。次回がいつになるかは分からないが、次回があれば次こそは駒を前に進める姿を深浦先生に見ていただきたいな、と思う。